人気ゲームの愛されキャラ
コーエーテクモゲームスの人気作『三國無双』シリーズはアクションゲームであるとともに、キャラクターの個性とストーリーにも重点を置いたキャラゲーでもある。
ゲームのストーリーなので歴史とは分けて考える必要があるが、ゲーム独自のキャラ付けによって新たな魅力を得た武将もいる。
イケメンになってもやはり気に入らない姜維のような武将は存在するが、無双武将として接する中で気に入ったのは、魏の夏侯淵(かこうえん)だ。
演義では弓の名手と言われながら目立った活躍がなく、黄忠に斬られるというやられ役のイメージしかないが、ゲームでは気さくな性格が与えられて、おっさん臭い風貌に似合わない(?)いい笑顔と、ユーザーを笑顔にするコミカルなセリフから、コアな無双ファンからは「淵ジェル(えんじぇる)」と呼ばれ親しまれている。
前述の通り、ゲームと正史は分けて考える必要があるが、無双武将の中でも屈指の好人物である夏侯淵は、正史ではどのような活躍をしたのだろうか。
今回は、ゲーム屈指の愛されキャラである「淵ジェル」こと夏侯淵の生涯を辿る。
地味な出世街道
演義では曹操と夏侯惇の従兄弟(作品によって血縁関係に変化あり)として登場する夏侯淵だが、正史には血縁関係が詳しく書かれておらず、実際のところは不明である。
それでも同郷の者として古くから付き合いはあったようで、曹操が県の長官に対して犯した罪を夏侯淵が被り、処罰を受ける前に曹操に救出されたという。(具体的に何があったのかさっぱり分からないが、曹操の挙兵以前から曹操と夏侯淵は行動を共にしていたと言いたいのだと思う)
曹操挙兵以降の夏侯淵の活躍だが「曹操の元で地道に出世を重ねた」という淡々とした記述しかなく、その名前が本格的に登場するのは官渡の戦いが終わってからだ。
袁紹を破った曹操は、夏侯淵に兗州・豫州・徐州の兵糧を監督する任務を与える。
任務の中には兵糧の輸送も含まれており、官渡の戦いで勝敗を分けた兵糧輸送という重要な任務を夏侯淵は破綻なくこなし、軍の兵糧が途切れる事はなかったという。
縁の下の力持ちから主力へ
「三日で五百里、六日で千里」と言われる迅速な行軍を得意としたという評価とは裏腹に、地味ながらも重要な任務をこなす、縁の下の力持ちとして重用されて来た夏侯淵だが、曹操に対して反乱と降伏を繰り返した昌豨(しょうき)の鎮圧を任されてからは、武将としても活躍するようになる。
昌豨の武将としての力量は不明だが、曹操自慢の名将である張遼、于禁とともに夏侯淵は昌豨を降伏させており、昌豨の処刑後は典軍校尉に任命された。
その後も夏侯淵は反乱の鎮圧に貢献して、曹操軍の主力として活躍する。
ここまで書くと、夏侯淵は兵糧輸送と反乱の鎮圧しかしていない印象を受けるが、大規模な戦闘でも活躍している。
211年、馬超と韓遂が反乱を起こすと、夏侯淵も従軍している。(元は夏侯淵が漢中の張魯を攻めるよう計画していたところに馬超が攻めて来たのがきっかけで、やはり反乱の鎮圧ではあるが、夏侯淵の参加した戦闘として潼関の戦いはかなり大規模なものだった)
気になる夏侯淵の活躍だが、馬超と戦って戦果を挙げたという記述はなく、異民族の氐族を討伐したという簡単な内容しか残っていない。(11月に曹操と安定で合流して楊秋を下したとあるが、派手な戦果とは言い難い)
その後も夏侯淵は馬超と戦っているが、212年の戦いでは馬超に敗れて撤退したものの、214年には韓遂とともに馬超を破り、涼州の平定に成功した。
涼州の異民族といえば羌族が有名だが、一連の戦いに於ける活躍によって羌族は夏侯淵を恐れるようになり、曹操は羌族への脅しとして夏侯淵の名を使ったという。
定軍山の戦い
曹操が漢中を平定すると、夏侯淵は漢中の守備を任される。
一方、蜀を手に入れた劉備は、孫権との関係を安定させる(※単刀赴会参照)と、漢中の攻略を目指して進攻を始める。
魏と蜀の戦いは2年以上の長期戦となり、一進一退の攻防が続いていた。
夏侯淵は魏の名将として名を残す張郃とともに奮戦するが、次第に追い詰められる。
張郃の苦戦を知った夏侯淵は自身の半分を軍を割いて張郃の救援に向かわせると、劉備は半減した夏侯淵の本陣の攻撃を決意する。
先陣に黄忠が抜擢されると、参謀に着いた法正の進言に従って夏侯淵の陣から離れた逆茂木を焼き払う。
それを見た夏侯淵は自ら修理へと向かうが、背後に回っていた黄忠の襲撃に遭い、戦死した。
結果を知る現代人の目から見ると、大将自ら出向かなくても適当な配下に任せて修理させても問題なかったと思うのだが、曹操が夏侯淵に対して言い聞かせていた「将たる者、臆病を知らねばならぬ」という言葉通り、勇猛すぎる性格が仇になってしまった。
夏侯淵の死後、曹操は漢中を奪還すべく自ら軍を出すが、守勢に回った劉備を崩す事が出来ず、曹操の人生最後の出陣はまさかの大敗で終わった。
夏侯淵と蜀の縁
これまで何度も煮え湯を飲まされて来た曹操を撃退する大勝利に盛り上がる蜀だが、一人だけ悲しむ人物がいた。
名前の伝わっていない夏侯淵の弟の娘(姪)としか書かれていないため、ゲームのような伯父と姪の交流があったかは不明だが、夏侯淵が引き取った事は事実であり、張飛が連れて帰るまで実の娘のような存在だった。
夏侯淵の戦死を知った夏侯氏は、遺体の引き取りを申し出て、伯父を埋葬したという。
夏侯氏の時にも書いた内容(※夏侯氏の作った魏と蜀の縁参照)なのでここでは簡単に書くが、夏侯氏と張飛の娘は劉禅に嫁いで蜀の皇后となっており、夏侯淵の親類は蜀と大きな繋がりが出来ていた。
夏侯淵の息子として最も有名な夏侯覇は、司馬懿のクーデターによって命を狙われる身になると、従姪にあたる夏侯氏の娘が皇后として暮らす蜀に亡命する。
皇后の親類という血縁関係を利用して夏侯覇は蜀でも重用され、魏に残された親族も夏侯淵の子孫という事で流罪で済まされた。
正史に書かれた活躍のほとんどが裏方で、人柄に於いても「淵ジェル」と親しまれるようなエピソードも皆無だが、魏と蜀に深く関わった夏侯淵の血は、死後も両国に大きな影響を与え続けたのである。
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