蜀の誇る老将
蜀の誇る猛将ユニット、五虎大将軍の中で、これまで関羽、張飛、趙雲、馬超と4人の記事を書いて来た。
最後に残ったのが黄忠だが、一般的なイメージは「元気な老将」だろうか。
演義では関羽との名勝負に加え、劉備の蜀攻めや「定軍山の戦い」に「夷陵の戦い」と出番こそ少ないが、少ない出番でいずれも見せ場を作る、非常に密度の濃い活躍をしている。
その影響もあって中国では老いてなお元気な人を指す「老黄忠」という言葉があるが、黄忠の活躍は正史に描かれているのだろうか?
今回は、正史と演義に描かれた黄忠の生涯を辿る。
モブと変わらない?謎に包まれた劉備軍加入まで
三国志ファンからは、今も昔も老将の代表格として知られる黄忠だが、その生涯の9割は謎である。
関羽、張飛、趙雲ですらまともな記述が少ない正史なので過度な期待はしないようにしていたが、黄忠に関する記述は更に少ない。
元は劉表の配下だったが、劉表の死後、劉琮がすぐに曹操に降伏したため、荊州を手に入れた曹操の配下となる。(黄忠の直属の上司は演義と同じ長沙太守の韓玄である)
「赤壁の戦い」の後に劉備が攻めて来ると、韓玄がすぐに劉備に降伏したため黄忠も劉備に仕える事になる。
正史に於ける黄忠の劉備陣営加入までの記述はこの通りシンプルなもので、モブ武将と大して変わらない扱いである。
関羽との名勝負は実はフィクション
黄忠を語る上で外せないのは、関羽との一騎打ちだ。
赤壁の戦いに於いて曹操を追い詰めながらも、情に負けて取り逃がすという失態を演じた関羽は、長沙を落として失敗を取り返そうと燃えていた。
その関羽の前に立ちはだかったのが、当時60才以上だった黄忠だ。
老将に軍神の相手が務まるのか?と関羽ファンでも不安になるが、黄忠は関羽を相手に一歩も引かない武勇を見せる。
そんな中、黄忠の馬が躓いてしまい、黄忠は絶体絶命のピンチを迎える。
勝利目前の関羽だったが、不本意な形での決着を嫌って馬を乗り換えるよう言い残して立ち去る。
関羽の姿に恩義を感じた黄忠は、兜を射貫いて借りを返し、今度こそ決着を着けようとするが、この行動を見た韓玄は「黄忠は劉備と通じている」と疑い処刑しようとする。(関羽の長沙攻めの前に「韓玄は気が短い上に疑り深く、人を妄りに殺すため人望もない」と散々な人物評がされており、黄忠を殺そうとする伏線になっている)
熱戦に水を注された挙げ句、殺されそうになるなど黄忠の扱いも散々ではあるが、劉表軍から加わったばかりの(設定である)魏延が反乱を起こして黄忠の危機を救う。(韓玄の首を持って劉備に降伏したら「反骨の相があるから殺した方がいい」と言われる魏延も災難ではある)
(演義によって脚色されたキャラではあるが)いいところがない韓玄の何処に忠誠心を持って仕えたいと思ったのか理解に苦しむが、黄忠は主君の死にショックを受けて屋敷に引きこもってしまう。
ドラマでは劉備、関羽、諸葛亮が自分達の陣営に加わるよう説得して、黄忠が劉備の配下に加わる事になるが、演義にのみ描かれて正史には一切記述がない事実からも分かる通り、関羽との一騎打ちはフィクションである。
関羽の活躍も大半がフィクションであるというのは関羽ファンなら周知の事実であり、黄忠との名勝負に関しても「知ってた」の一言で終わるところだが、フィクションを挟んだが故に後に面倒な矛盾が生じる事になる。
正史で描かれた数少ない活躍と演義で生まれた矛盾
劉備の配下になってからの黄忠の記述は「定軍山の戦い」まで正史と演義でほぼ一致している。
正史では「劉備の益州攻めに付き従い、敵の陣を落とした」と活躍が正史に書かれており、益州平定後には討虜将軍に任命されている。
219年の曹操軍との直接対決では定軍山で法正とともに夏侯淵を討ち取る活躍を見せており、ゲームの『三國無双』シリーズでは演義のストーリーを膨らませた黄忠と夏侯淵のライバル関係が描かれている。(定軍山の戦いの詳細は夏侯淵回参照)
曹操軍の名将である夏侯淵を討ち取った功績によって黄忠は征西将軍に昇進し、曹操との戦いに勝利して漢中王となった劉備は黄忠を後将軍(演義では五虎大将軍)に任命しようとするが、思わぬところから横槍が入る。
荊州で留守を預かっていた関羽も同格の前将軍に任命されたのだが、正史では一切絡みのない黄忠に対して「あんな老いぼれと同列にされたくない」と前将軍への就任を拒否してしまう。
最終的には費詩の説得によって関羽は前将軍に就任するが、演義での関羽も正史と同様に五虎大将軍入りを拒否して、こちらも正史と同じく費詩の説得に折れている。
ここで前述した「面倒な矛盾」の話になるが、演義の関羽は黄忠と一騎打ちを行った唯一の武将であり、蜀の人間の中で一番黄忠の実力を認めていたはずである。
その関羽が黄忠を「老いぼれ」呼ばわりするのは、正史の関羽を知らなければ違和感を感じるだろう。
結論から言うと正史のエピソードをそのまま演義でも書いたために起きた矛盾で、中学生だった当時は気にしていなかったが、今思えば関羽のマイナスイメージにしかならないストーリーの粗である。
演義の延命と黄忠最後の戦い
西暦220年、定軍山の戦いを含めた一連の戦いでの曹操軍撃破、及び劉備の漢中王即位から一年も経たずに黄忠はこの世を去る。
劉備が蜀の皇帝に即位する姿を見る事なく黄忠は亡くなった訳だが、演義では作者による延命が行われ「夷陵の戦い」に参戦している。
父親達の仇討ちとして加わった、関羽と張飛の息子である関興と張苞の活躍によって蜀は連戦連勝を重ね、劉備は若い力の台頭を喜ぶ。
それを聞いた黄忠は、老将の自分もやれる事を証明すべく単身で潘璋の陣へと向かうが、その無謀な行動によって深手を負い、命を落とす。
劉備は黄忠を死に追いやった自分の発言を悔やむが、その劉備も夷陵の戦いで陸遜の火計によって大敗し、失意のまま白帝城で生涯を終えるのは正史と同じである。
演義オリジナルである黄忠の死は、蜀の武将で劉備の存命中に比較的活躍していた黄忠のために羅貫中が見せ場を作りたかったのだと考察するが、正史のように穏やかに死を迎えた方が良かったのか、演義のように戦場で派手に戦死した方が良かったのか、黄忠自身はどちらを望んでいたのだろうか。
それを知る事は出来ないが、死の直前まで活躍した黄忠の名は現代まで残り、創作では老将キャラとして元気な姿を見せている。
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