公孫淵の野望
229年、呉王孫権は帝位に登り、中華の地は三人の帝が並びたつ異例の状態へと突入。
さらに、蜀漢の丞相・諸葛亮は漢王朝再興のため、三度目の北伐を行い、三国による戦いはますます争乱の様相を呈します。
一方、遥か北の大地では、この三国の争乱に乗じ、魏の遼東太守である公孫淵(こうそんえん)は独立を果たそうと画策します。
公孫淵は魏の目を掻い潜り、呉の孫権と親交を結んで着々と独立の準備を整えますが、魏から疑いの目を向けられると、今度は孫権との密約を反故にし、再び魏へと臣従を誓います。
その後、魏は公孫淵を謀反の疑いにて討伐すべく軍を差し向けますが、公孫淵はこれを撃退し、遂に遼東の地にて独立を宣言し、燕王を自称しました。
遼東の王となり意気揚々の公孫淵でしたが、本気となった魏は三国志後半の最強軍師として名高い司馬懿に討伐を命じます。
今回は魏と呉を手玉に取るも、結果として悲惨な最後を辿った公孫淵についてご紹介します。
遼東公孫氏について
もともと公孫氏は遼東方面の太守の出自ですが、公孫淵の祖父である公孫度は黄巾の乱から始まる後漢王朝の騒乱を機に独立志向を高めており、朝鮮半島や遼東以北の異民族らと交流を持ち、中華圏とは別の半独立国家のような群雄として割拠していました。(※ちなみ劉備の学問の兄弟子とも言われる公孫瓚(こうそんさん)の公孫氏とは一切関係ありません。)
公孫度は遼東周辺の勢力を支配下に治め、高句麗や烏桓(烏丸)と呼ばれる異民族の討伐に功績を挙げると、遼東に確かな基盤を築きます。
曹操の台頭
その後、曹操が後漢王朝を奉戴すると、曹操は公孫度に将軍と郷侯の地位を与えますが、公孫度は曹操を見下しており、授かった印綬を武器庫に仕舞いこみます。
しかし、200年に曹操が袁紹を官渡の戦いにて破り、中原の覇者として君臨するようになると、半独立を保っていた公孫氏も勢力を急拡大する曹操に接近せざるを得なくなります。
204年に公孫度が亡くなり、嫡子である公孫康が跡を継ぎますが、公孫康は207年に袁紹の息子である袁煕・袁尚兄弟らが曹操に敗れて遼東に逃げ込んでくると、彼らを捕らえ処刑し、曹操への服属を誓います。
三国鼎立後
劉備が蜀の地を得たことにより、中華は三国争覇の時代へと移行します。一方、遼東では公孫康が死去し、弟の公孫恭が遼東太守を務めていました。
しかし、公孫恭は病気がちであり、曹丕が治める魏に対しては忠実だったのですが、228年に公孫康の次子である公孫淵が謀反を起こし、遼東太守の座を奪い取ってしまいます。
翌年、呉王であった孫権は帝位に就くと、魏を挟撃すべく公孫淵に目を付けます。孫権は公孫淵に使者を送り、互いに交易を行う関係へと発展します。
一方の公孫淵も最初は孫権に対し警戒していましたが、孫権から大袈裟な扱いを受けたためか、呉に対してすっかり気を良くしていました。
孫権はその後も使者を乗せた船団を送り出しますが、この情報をキャッチした魏は次第に公孫淵が呉と通じているのではないかと疑い始めます。
二枚舌外交
233年、公孫淵との友好を確信した孫権は公孫淵を「燕王」に封じ、宝物と1万人の兵と使者を満載した大船団を遼東に派遣することを決定します。
これを聞いた顧雍・陸遜・張昭ら重臣一同は必死に孫権を諫めますが、孫権はこれを無視します。
上機嫌の孫権とは裏腹に、一方の公孫淵は大使節団派遣の報告を聞いて焦ります。実はこれより少し前に孫権の使者の船団が、魏の田豫(でんよ)によって捕縛されており、公孫淵が呉と通じていることは明らかであると魏帝・曹叡に報じられていたのです。
魏の追求を恐れた公孫淵は、呉の大船団が遼東に辿り着くと、宝物を奪い、使節団の代表である張弥・許晏・賀達らを殺害し、彼らの首を魏へ送り届けます。臣従を改めて証明した公孫淵に対し、魏は大司馬・楽浪公の位を授け、一旦は追求を取り止めます。
かたや、この報告を聞いた孫権は激怒し「公孫淵を討つべく自ら軍を起こす」と宣言しますが、君主自らが遼東の地に向かうのは危険すぎると重臣らに諫められたため、止む無く討伐を断念します。
燕王の反乱
公孫淵との連携が失敗した孫権は、次に朝鮮半島の高句麗と通じることを画策します。
この動きを察知した魏帝の曹叡は毌丘倹(かんきゅうけん)に兵を率いさせて、遼東の情勢を探らせます。さらに、曹叡は連年不審な行動を取った公孫淵を連れてくるよう毌丘倹に命じます。
237年、毌丘倹は公孫淵に出頭するよう迫りますが、公孫淵はこれを拒否し、徹底抗戦の構えを示します。毌丘倹は公孫淵を攻めますが、地の利のある公孫淵に敗北してしまい、撤退してしまいます。
”魏、恐れるに足らず”と増長した公孫淵は遂に独立を宣言し「燕王」を称します。
家臣である賈範・綸直らは勝ち目がないことを説き、公孫淵を諫めますが、逆に処刑されてしまいました。
司馬懿の出陣と遼隧の戦い
238年、公孫淵の反乱を重く見た魏帝の曹叡は軍のトップである司馬懿に討伐を命じます。
遠く遼東の地を如何に攻めるかと曹叡が尋ねると司馬懿は、
「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、その他休養などに60日を当てるとして、1年もあれば充分でしょう」
「また、公孫淵が城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。奴が知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」
と答えました。
速攻を得意とする司馬懿は、道中の悪路も物ともせずあっという間に遼東に到着。
まさか、魏の軍事トップである司馬懿が出てくると予想していなかった公孫淵は慌てて、かつて和を通じた呉に援軍を求めますが、孫権は冷たく「司馬懿の用兵は神の如く、お気の毒である」と返答します。
公孫淵は司馬懿を迎撃しますが、防戦一方となり、国都である襄平に籠城します。しかし司馬懿は城内の兵糧は少ないと見通しており、城の包囲を緩めませんでした。
案の定、城内の糧秣は底を尽き、公孫淵は降伏を決意します。
悲惨な最後
公孫淵はまず和議という形で戦いを終わらせるべく柳甫と王建の二人を使者として遣わせます。
しかし、司馬懿は楚と鄭の故事を引用し、二人をその場で処刑、もっと若い使者を送るよう要求します。恐れた公孫淵は次に年の若い衛演を使者として送りました。
衛演は必死に助命嘆願を訴えますが、司馬懿は「最初にお前達は降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみ。人質など無用。」と言い放ちます。
これを聞いた公孫淵と家臣らは脱出しようとするも捕縛されてしまいます。
公孫淵を捕らえた司馬懿の対応は苛烈を極めました。
まず公孫淵の一族、及び家臣らを処刑、さらに遼東が再び反乱を起こさないように見せしめとすべく遼東の成人男性7000人余りを殺戮します。また、洛陽に在留していた公孫淵の一族も処刑されてしまい、ここに遼東公孫氏は滅亡してしまいます。
三国の争いに乗じ、二枚舌外交を用いて王になった人物にしては余りにも悲惨な最後を遂げたのです。
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