蜀の終わりの始まり
蜀の二代目皇帝である劉禅の時代は、劉備の死による即位から蜀の滅亡まで「王は君臨すれども統治せず」という言葉を貫いた時代だった。
アンチ姜維としての個人的な感情が入っている事をご容赦願いたいが、蜀の国力が大きく衰えたのは姜維が軍のトップになったことが始まりである。姜維が北伐を繰り返した最後の10年になるまで、良くも悪くも蜀は国として安定していた。
では、最後の10年のきっかけとなった出来事として何があったのだろうか。
今回は、蜀の終わりの始まりとなった費禕(ひい)の死と、その生涯を辿る。
若き日の費禕
荊州に生まれた費禕は幼い頃に両親を亡くしたため、親類である費伯仁(ひはくじん)の元に身を寄せる。
費伯仁自体、費禕伝に僅かな記述しかない謎の人物であるが、費伯仁の姑(妻の母)が益州を統治していた劉璋の母であり、そのツテを使って益州に移住したようである。
費禕が劉璋に仕えたという記述はないが、劉備が益州を手に入れた時に加わったと書かれており、前の統治者であった劉璋との血縁関係もあって蜀で厚遇されるようになる。
劉備の存命時は主に「劉禅の補佐役」で目立った記述はなく、その名が三国で有名になるのは劉備の死後に劉禅が即位してからになる。
演技をベースにした『横山三国志』やドラマ『三国演義』では、北伐中の良いところで劉禅の使者として蜀軍の元に現れては撤退命令を伝えている印象しかない(勝手なイメージで費禕に申し訳ない)が、実際はかなりのやり手外交官であり、呉に派遣されては舌戦を繰り広げていた。
天才とのタイマン勝負
費禕は、諸葛恪、羊衜(ようどう)といった呉の弁士とも渡り合い、孫権も他国の臣ながら費禕を高く評価していたという。
特に諸葛恪とのタイマン勝負は語り草になっている。
費禕を迎える宴席に於いて、呉の臣下は孫権の命令によって費禕を無視していた。
当時の外交はなめられたら終わりの世界なので、費禕は「鳳凰が来ると麒麟は食事をやめたというが、ここは『ロバ』かラバしかいないのか、みんな俯いて食べるばかりだ」と呉を挑発したのである。
「ロバ」とは呉の重臣である諸葛瑾を揶揄する言葉であり、諸葛瑾本人よりも息子の諸葛恪にとって許せない言葉だった。
費禕の挑発に対して諸葛恪は「鳳凰が来たと思ったら燕雀が来た」と応戦した。
最後はお互いに詩を作り合うなど、当代屈指の天才に対して一歩も引かない名勝負を演じたようだ。
※詳しい内容は諸葛恪の天才エピソード参照
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/51644/#i-5
孫権は、諸葛恪に対して一歩も引かない費禕を気に入り「君は蜀の中心になる」と最大級の賛辞を送った。
蜀の柱へ
孫権の見立て通り、費禕は蜀で出世を重ね、蜀にとって欠かせない存在になる。
北伐の戦闘で何か活躍をした訳でないが、不仲で有名だった魏延と楊儀の仲裁役になるなど、一歩間違えたら壊れかねない蜀軍を陰ながら支えていたのが費禕だった。
諸葛亮は費禕を高く評価しており、費禕は蔣琬(しょうえん)、姜維とともに死後の蜀を託されている。
蔣琬とともに政治面で蜀を安定させた費禕だが、軍事面では終始消極的で、蔣琬と姜維の北伐に反対している。(但し戦争経験がない訳ではなく、244年に攻めて来た魏に対して費禕自ら蜀軍を指揮して撃退している)
川を下って攻めるため、万が一負けたら逃げ場がなくリスキーすぎた蔣琬の北伐計画は、蔣琬の病死によって頓挫したが、40代に入り武将として脂の乗り切っていた姜維は、後の歴史が証明する通り蔣琬以上に北伐を熱望していた。
費禕は「丞相(孔明)に劣る我々は、魏に勝つ事は出来ない」と、姜維に1万以上の兵を与えず、存命中は無駄な国力の疲弊を防いでいた。
費禕の死と蜀の崩壊
253年の正月、蜀では新年を祝う宴会が行われていた。
新年のめでたい席で費禕は泥酔しており、無警戒だったところを魏の降将である郭循(かくじゅん)に刺殺されてしまう。
蜀の名将・張嶷(ちょうぎょく)は、降伏した者を信用しすぎる費禕に対して「過去の名将でも岑彭(しんほう)に来歙(らいきゅう)といった刺客によって暗殺された者がいるのだから、費禕も警戒すべきである」と警告していたが、その通りの結果になってしまったのである。
既にこの世を去っていた孔明、蔣琬、董允とともに蜀の四相と呼ばれた名臣の唐突な死は、黄皓ら宦官による政治の腐敗を招いた。軍事面に於いても大将軍の職を継いだ姜維による北伐が続き、疲弊を繰り返す事になる。
費禕の死から10年経った263年に蜀は魏に降伏する訳だが、モチベーションゼロの蜀軍相手でも苦戦する、正に天然の要塞と呼ぶべき蜀の悪路がなければもっと早く滅びていただろう。
それでも、費禕が10年長生きしていれば蜀はもっと長続きしたはずなので、費禕の死は蜀の終わりの始まりだった。
三国志屈指の強心臓
今回は費禕にスポットを当てて、蜀に大きな影響を与えた彼の人生を辿った。
作中に於ける出番も活躍も多くはないが、後世に残したエピソードに面白いものがあるので、最後にいくつか紹介する。
劉備に仕えるようになった頃、許靖(きょせい)が息子を亡くし、費禕は董允とともに葬儀に参列する事になった。
董允は父の董和に馬車を出して欲しいと頼んだが、董和が用意したのはみすぼらしいものだった。
それを見て董允はこの馬車に乗るのを嫌がったが、費禕は躊躇なく乗り込んで葬儀場に向かう。
葬儀場には孔明を初めとする蜀の高官が揃っており、彼らの乗る豪華な馬車に対して費禕と董允の馬車は悪目立ちしていた。
しかし周囲の目を気にする董允とは対照的に、費禕の態度は堂々としていた。
見事なまでに正反対な二人の様子を見た董和は董允に対して「お前と費禕のどちらが優れているか、今分かった」と言ったという。
(※余談だが、人前で遊んでいるように見せながら裏では膨大な政務をこなしていたというエピソードも有名だが、費禕から仕事を受け継いでその仕事量の多さに費禕の凄さを思い知ったのも董允である)
文官のイメージが強い費禕だが、前述の通り自ら軍を指揮して魏を撃退している。(この戦いを「興勢の役」という)
この時のエピソードは以下である。
魏を迎え撃つため出陣の準備を進める中、費禕の元に来敏(らいびん)が訪れ、「しばらく会えなくなるから最後に碁を打とう」と誘った。
費禕はその申し出を受け、来敏と碁に興じるが、時間が経つにつれて現場の雰囲気が殺伐としたものになる中、費禕は顔色一つ変えず勝負に集中していた。
もはや囲碁どころではない雰囲気に音を上げたのは来敏の方で「あなたを試すつもりで碁の勝負に誘ったが、この肝の据わり方は間違いない。必ず魏に勝てるでしょう」と費禕を絶賛し、その言葉通り費禕は蜀を勝利に導いた。
完全アウェーの呉で舌戦を繰り広げた時にも見られたが、何事にも動じない費禕の強心臓ぶりは三国志の人物でも屈指のものであり、その実績はもっと評価されるべきである。(但し、そのメンタルの強さと外交で培った対人能力の高さ故に、細かい事は気にしない性格が自身を死に追いやってしまったのは皮肉である)
『三國志14』に於ける費禕(統率77/武力30/ 知力83/ 政治92/魅力83)と、蔣琬(統率78/武力34/知力84/政治93/魅力81)のステータスを比較すると、狙ったかのように統率、知力、政治が1だけ低いという惜しい評価が目に付く(但しどちらも優劣着けがたい名臣であるのも事実である)が、数々のエピソードを残した費禕の人間としての魅力は83どころか90以上あってもいいと思う。
参考文献 : 正史三国志
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