
画像 : ホオノキ イメージ wiki c Bruce Marlin
あらゆる超常現象のほとんどが、科学的に説明できるようになった現代においても、どうにも説明のつかない不可思議な現象が起きることがある。
「神仏の祟り」といわれる現象も、その一種であろう。
山梨県甲州市大和町に鎮座する初鹿野諏訪神社(はじかのすわじんじゃ)に、触れた者に祟ると伝えられるホオノキがある。
このホオノキは初鹿野諏訪神社のご神木なのだが、日本各地に「祟る木」は数あれど、このホオノキほど強烈な力を持つ木はそうそうないはずだ。
何せその祟りは「落ちた葉を1枚拾うだけでも、その人間に災いを与える」とまで言われているのだ。
枝払いはもちろん伐採などできるはずもなく、神社のすぐ裏を通る中央本線の線路は、伸びたホオノキの枝が架線や通過する電車に触れないように、鉄骨造りの囲いで保護されている状態なのである。
大企業までも動かしてしまうこのホオノキの祟りの恐ろしさはいかばかりなのか、気になりはしないだろうか。
今回は、初鹿野諏訪神社とご神木のホオノキの由緒や、ホオノキが起こした祟りと呼ばれる出来事について触れていきたい。
初鹿野諏訪神社とホオノキの歴史

画像:千引石を持ち上げるタケミナカタ public domain
初鹿野諏訪神社の創建時期は明らかではないが、古来より近隣一帯の産土神として崇められていた神社であり、現存する本殿は「1793年に下山大工の土橋文蔵の施行により再建したもの」と伝えられている。
境内には本殿、拝殿、随神門とご神木のホオノキが鎮座し、かつて甲州街道三本杉の1つに数えられた巨大な杉の切り株も残されている。
200年以上前に建てられた本殿は、迫力ある彫刻が多数施された見事なもので、昭和53年には山梨県の県指定文化財にも登録された。
主祭神は「タケミナカタ」で、「初鹿野」という地名は、タケミナカタがこの地で狩りをした伝説に由来すると伝わっている。
ご神木のホオノキは、本殿の裏手に立っている。
このホオノキは「かつてヤマトタケルが初鹿野で休んだ際に、地面に突き立てた杖が発芽し、根を張って成長した木」と伝わっており、樹齢は二千数百年、幹は何度か枯れているものの、その度に根元から芽を生やして今の姿になっているのだという。
そして、神社の由緒を伝えるために大建てられた看板にははっきりと
「古来からこの神木を疎かにすると、不祥の事件が起きると信じられているので、神意に逆らわないようにしている。」
参照:https://hotokami.jp/area/yamanashi/Hkgtk/Hkgtkty/Dmmyy/119274/history/
と記載されているのだ。
「ホオノキの祟り」と噂される事件

画像:JR中央本線・甲斐大和駅の駅舎 wiki c This photo was taken with Sony NEX-3
初鹿野諏訪神社のホオノキの祟りにまつわる話で、記録が残っている最も古い出来事は、明治36年に行われた「中央本線延線工事の際の逸話」だ。
しかしこの時は、ホオノキの祟りによって何らかの悲劇が起きたわけではない。
中央本線の延線工事は、もともとあった大月駅から、現在の甲斐大和駅(旧初鹿野駅)まで延長する計画で実施された。
しかし鉄道を敷く際、直線で敷いてしまうとどうしてもホオノキが立つ場所に、線路が被ってしまう。
結局、旧国鉄は線路をカーブさせて設置し、電車や線路が初鹿野諏訪神社のホオノキに触れないようにしたのだという。
ちなみに、甲斐大和駅の北東には武田勝頼が自害した天目山があり、駅ホームには「武田氏終えんの郷」と書かれた看板が設置されている。さらに駅の裏手には、武田勝頼の銅像も建立されている。
※参考記事
自刃した武田勝頼に最期まで尽くした土屋昌恒 ~「片手千人斬り」の伝説
https://kusanomido.com/yahoo/97279/
それはさておき、ホオノキを避けるように線路を設置して、無事中央本線が延長されたが、その2年後に大きな事件が起きた。

画像:朴葉味噌 wiki c Andrea Schaffer
ホオノキの葉は、丸い形状と十分な大きさに加えて、良い香りと抗菌作用があるため、古くから味噌や飯などの食べ物を包むために使われてきた。
ホオノキの「ホオ」とは、「包」を意味している。
この地方では柏餅を作る時、自生していないカシワの葉の代わりにホオノキを使う習慣があった。
延長工事から2年後の明治38年5月、初鹿野の近くにある川久保集落の住民は、端午の節句の柏餅を作った。
しかし、いつもは他のホオノキの葉を使っていたのに、その年だけは初鹿野諏訪神社のホオノキから葉を拝借してしまった。
川久保集落の柏餅を食べた人々は、次々と急病に倒れて命を落とした。無事だった住民の家も直後に大水害で流されてしまい、12戸あった集落は壊滅し、生き残った人々も他所に移ってしまったという。
もちろん集団食中毒の可能性もあり、当時時折流行していたコレラの可能性も考えられているが、この事件によって初鹿野周辺の人々はさらにホオノキに対する畏怖の念を持ったに違いない。
その15年後の大正7年に行われた初鹿野駅拡張工事や、昭和4年の鉄道電化の際には「ホオノキの伐採案」も浮上したが、引き受ける業者はいなかったという。
ホオノキを枝払いした国鉄職員や関係者が次々と急死

画像:写真AC
時代は進み昭和28年、ついにホオノキの枝払いが決行されることになった。
終戦後、復興を目指す日本はどんどんと近代化が進み、「ご神木の祟り」という迷信じみた話を信じる人も少なくなっていたのかもしれない。
それでもホオノキを伐採しようというわけではなく「伸びて茂った枝を整理して、架線や電車に枝がかからないようにする」という、ただそれだけの計画だった。
念には念を入れて、神職を呼んで作法にのっとった慰霊祭を行ってから、作業は開始された。
しかし枝払いが終わってからまもなく、作業員の1人が勝沼町の線路上で列車にはねられ事故死した。なぜかその人物は夜の線路上を1人で、ふらふらと歩いていたのだという。
それから5年後の昭和33年3月には、同じく枝払いを行った作業員が、甲府駅構内で列車にはねられて最初の1人と同時刻に死亡し、その年の11月には慰霊祭を行った神職が、マスの養殖池で溺死しているところを発見された。
さらには枝払いの手伝いをした国鉄職員が2人いたが、1人は転勤後の夜間作業中に列車にはねられて死亡、1人は病気により急死してしまった。
命を落とさなかった2人の作業員も大きな事故にあい、ホオノキの祟りを恐れ続けていたという。
不可解な交通事故とも結びつけられたホオノキの祟り

画像:事故が起きた韮崎バイパス(写真は山梨県韮崎市本町1丁目付近) wiki c Ebiebi2
ホオノキの枝払いが行われてから約15年後の昭和43年、中央本線の線路拡張工事のために、ホオノキを撤去する計画が提案された。
その直後の5月15日午前3時半ごろ、初鹿野諏訪神社と線路を挟んで斜め向かいにある大和中学校の生徒と教員が、修学旅行で京都に向かうため、バスに乗り込んだ。
ところが、そのバスが大事故にあってしまった。
生徒たちを乗せたバスは国道20号線韮崎バイパスを走っている最中、無免許の少年が運転する大型トラックと正面衝突してしまい、生徒含む計6名が死亡、重軽傷者も20名あまり出るという悲惨な事故が起きたのだ。
大型トラックを運転していた少年は正規のドライバーではなく、荷物の積み降ろしのために同乗していた補助の乗員で、休暇明けで体力は十分あったはずの本来のドライバーに運転を押し付けられ、それからわずか数分で事故を起こしてしまったという。
韮崎バイパスの休憩所の端には、この事故の犠牲者を追悼するための慰霊碑が建立されている。
不条理な事故によって尊い命が失われ、初鹿野近辺に住む人々は「ホオノキの祟りではないか」と噂した。
迷信から遠ざかっていた人々が畏怖を抱くには、十分すぎる衝撃的な出来事だったのだろう。
現在の初鹿野諏訪神社のホオノキ

画像:大阪府堺市の大鳥大社にあるヤマトタケルの銅像 public domain
現在は枝払いすら許されないホオノキを保護するため、中央本線の線路にはホオノキに接する場所にのみ鉄骨造りの頑丈な屋根が設置されており、ホオノキは立派な葉と枝を茂らせている。
諏訪神社の本殿もホオノキの枝葉が当たらないようにするためか、鉄骨の柵で厳重に囲まれている状態だ。
今回取り上げた事件や事故が「ホオノキの祟り」であるかどうかを、確かめることはできない。
目に見えない祟りの力は、現代の科学でも証明しようがないのだ。それゆえに肯定することもできないが、全面的に否定することもできないというのが人間的な心情であろう。
祟りがあってもなくても、町の教育委員会によって公的にホオノキにみだりに触れることがないよう注意書きがされている。初鹿野諏訪神社のホオノキは、地元の人々からそれほど丁重に扱われている木ということは間違いない。
その地の神に無礼な行為を働くことは、その地域に住む人々に対しても大変失礼である。それは宗教も迷信も関係なく、人間として当然の礼儀であると言えるだろう。
縁あって初鹿野諏訪神社に参る機会を得た時は、畏敬の念を忘れずに参拝していただきたい。
参考文献
吉田 悠軌 (著)『禁足地帯の歩き方』
地名編纂委員会 (著)『角川日本地名大辞典 19 山梨県』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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