今回は前編に続いて後編である。
歴史教科書は今も変化を続けており、前編では坂本龍馬が教科書から消えるかもしれない件について詳しく解説した。
今回は源頼朝などの肖像画や、評価が変わった徳川綱吉を始めとした、他の様々な変更点について解説する。
肖像画
①源頼朝の肖像画
鎌倉幕府を起こした初代将軍・源頼朝。
彼の肖像画として黒い着物に黒い烏帽子(冠)をかぶった肖像画がよく使用されるが、この肖像画は源頼朝ではなくまったくの別人であるとされ、教科書には現在この肖像画は載っていないのである。
一説には足利尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)ではないかと言われている。
実はこの頼朝の肖像画は、以前から肖像画の冠や簪(かんざし)の形から鎌倉時代後期から南北朝時代に作成されたという説があったが、何故か真剣に議論されなかったという。
②足利尊氏の肖像画
今まで足利尊氏だとされた「ざんばら髪」の武将が馬に乗った肖像画も足利尊氏ではなく、別の人物を描いたものだとされ、今は教科書に載っていない。
疑惑の根拠は複数あるが、肖像画の人物の頭上に室町幕府第2代将軍・足利義詮の花押があることが大きな根拠とされている。
義詮は尊氏の子であるので、父であり先の将軍である人物の頭上に花押を押すということはとても考えにくいという。
次に肖像画に描かれた四万手(しおて・馬具の留め金部分)と目貫(めぬき・太刀の柄の部分)についている家紋である。これらは尊氏が用いていた家紋と異なるのである。
足利家は源氏の流れを汲む名門で、代々使用していた家紋は有名な「縦二引両紋」だが、この肖像画の家紋は「輪違紋」になっており、絵師が将軍家の家紋を描き間違えるということは絶対にないはずだ。
この肖像画の人物は、一説には尊氏の側近である高師直(こうのもろなお)ではないかとされている。
変更されたもの (和同開珎、大化の改新、士農工商、仁徳天皇陵、旧石器時代)
日本最古の貨幣は「和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)」がこれまでの通説だった。
しかし、今の教科書では「富本銭(ふほんせん)」が最古の貨幣となっており、富本銭は和同開珎より15年も前に作られていたのである。
645年だとされていた「大化の改新」も、646年に改められている。
645年に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼし、その後の一連の出来事を以前は「大化の改新」と呼んでいだが、蘇我入鹿を殺害した事件は現在では「乙巳の変(いっしのへん)」とされ、翌年の646年に発せられた「改新の詔」によって始まった政治的改革を「大化の改新」と呼ぶようになったのである。
江戸時代の有名な身分制度「士農工商」も、実はそういった身分制度は存在していなかったことが明らかになり、今の教科書には記載がない。
元々「士農工商」は、中国の古典で「すべての職業」「民衆一般」という意味で使われていたものなのだ。
つまり、武士の「士」が最初だから一番偉いという訳ではなく、単なる言葉だったということであり、士農工商という身分制度からの解放という意味で教えられた「四民平等」も教科書から無くなった。
「仁徳天皇陵」も、仁徳天皇の墓である確証が得られていないということで「大仙古墳」と記載するようになった。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代‥……という時代の流れであるが、実は「旧石器時代」という名称も教科書から消えている。
歴史の教科書には変更点や削除されたことが数多くあるのだ。
評価が変わった徳川綱吉
江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉と言えば、天下の悪法「生類憐みの令」を発布したことで「犬将軍」「犬公方」と揶揄された将軍だというイメージが強い。
貞享4年(1687年)将軍・綱吉は一つの法令を出した。そこには以下のように書かれていた。
一、捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、自ら養うか、または望む者がいれば養子とせよ
一、鳥類・畜類で人が傷つけたと思われるものは今までのように届け出よ。共食いや自ら傷つけたと思われるものは届け出なくてもよい。それらを養育し、持ち主があればかえすように
一、飼い主がいない犬に日頃食べ物を与えないようにしているという。それは要するに食べ物を与えれば、その人が飼い犬のようになって面倒なことが起こると考え、いたわらないでいるらしいがけしからん。これからはそのようなことがないよう
一、飼い犬が死ぬと飼い主は上司へ届け出ているという。その死に異常がなければ、これからはそのような届け出は無用である
これが「生類憐みの令」の最初の布告だった。
これ以後134回に渡って関連するお触れが出されるが、注目して欲しいのが最初に捨て子の保護を第一に謳っていることである。
つまり、捨て子だけでなく他の生き物も大切にしなさいと書いてあるだけなのだ。
こんな至極当たり前な法令が、なぜ天下の悪法と呼ばれるようになったのか?
4代将軍・家綱の時代に天下の転覆を計画した「由井正雪の乱」が発覚した。
大坂の陣を経て戦国時代が終わったにも関わらず、人々の心の中にはいまだに「武」を貴ぶ風潮が残っていた。
「由井正雪の乱」を契機に武断政治から文治政治へと幕府は転換を進めていたが、人の心は簡単には変わらず、夜になると辻斬り事件が多発し、夜道を歩くことは危険が伴っていた。
そのような殺伐とした世の中で、綱吉は将軍に就任したのである。
なぜ綱吉は、こんなにも極端な法を発布したのか?
それは武士たちに「仁の心」を身につけさせようとしたからだった。
「仁の心」は現在で言う「命を大切にしよう」ということである。
武力で抑えるのではなく、儒教の道徳と仏教の慈悲の精神を武士に身につけさせて、政治を行おうと考えた。
そのため綱吉は武士の意識改革を図ったのである。
綱吉は、2代将軍・秀忠が作った「武家諸法度」の序文にある「文武弓馬に最も励むこと」を「文武忠孝に励み礼儀正しくすること」に変更した。
更に綱吉は文治政治を広めるために「出前授業」を始める。
しかも江戸城だけではなく、将軍自ら諸大名のところに出張して出前授業を行った。
なんとその数は生涯に400回以上だという。
こうした綱吉の意識改革の一環として「生類憐みの令」があったのである。
綱吉の意識改革は武士だけに留まらず、民衆にも「子供を捨ててはいけない」「道端で倒れ込んで苦しんでいる人を救いなさい」という法も出している。
綱吉がその後の江戸時代の泰平の世を作ったと、最近は高く評価されているのである。
「犬を殺した人が死罪になった」「蚊を殺しただけで島流しになった」というのは後世の創作である。
また、綱吉の時代が悪政だったという評価には、運が悪かったことも影響している。
綱吉の治世の後半に「元禄地震」とそれに伴う大火事があり、火災で約20万人の命が失われた。
更に紀伊半島沖を震源とする巨大地震「宝永地震」が発生し、同じ年に富士山が大噴火したのである。
当時、こうした大災害は政治が悪いと起こると信じられ、このような自然災害はすべて綱吉の治世のせいにされたのだ。
しかも第6代将軍・家宣の側近・新井白石が綱吉の治世を批判したため、綱吉の評判はがた落ちし、悪い噂だけが後世に伝わった。
しかし、今の歴史の教科書では綱吉の評価が劇的に上がり、動物愛護と社会福祉に尽力した「仁の心」を持つ名君だとされているのである。
おわりに
TVドラマや映画の主人公として登場する人物は評価が高く、逆に綱吉のように悪人のイメージがついた人物は評価が低く、正当な判断をされていないことが多かったとも言える。
今の教科書は調査・研究によって歴史を正当に評価し、正しいことや重要なことを優先して記載しようとしているのである。
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