後妻打ち(うわなりうち)とは、平安時代中期〜江戸時代前期にかけてあった慣習で、夫に捨てられた前妻(こなみ)が仲間を集めて後妻(うわなり)を襲撃することである。
女達の襲撃の背景
1番古い後妻打ちの記録は、平安時代の中頃である。
1010年に藤原道長の侍女が、自身の夫の愛人の屋敷を30人程の下女と共に破壊したとされている。
さらにこの侍女は、1012年にも別の女の家を襲撃しており、そのことが道長の日記である「御堂関白記」に「宇波成打」と書き残されており、11世紀初めにはこの習俗は成立していたようである。
10〜11世紀の時期は、ちょうど貴族層を中心に婚姻形態が確立し「一夫一妻制」が出来上がってきた時代といわれる。
前近代の日本社会は「一夫多妻制」であったといわれているが実際は少し違う。確かに戦国時代や江戸時代の権力者が正妻以外の女性と関係を持つことは許されていたが、それは「妻」ではないのである。
正式な「妻」は1人であり、それ以外の女性は「妾(側室・愛人)」であり非公式な立場にあった。
乱婚ともいえるような婚姻形態から、建前上、少しずつ一夫一妻制に変化していったのが平安時代の中頃であった。しかし当時は「一夫一妻制」とは言っているものの、実態は男性にだけ不特定の女性との非公式な性交渉が許される「一夫一妻多妾制」の社会であった。
そのため女性は過酷な状況に置かれることとなる。1人の男性と性愛関係をもつとしてもそれが「妻」か「妾」かで天地の差が生じる時代となった。
そのため女性達の間で正式な「妻」の座をめぐる対立が表面化することになる。うわなり打ちでは女性達の怒りが身勝手な男にではなく、当面は正妻の座をめぐって同性の女性へと向けられた。
うわなり打ちの習俗は一夫一妻制(実態は一夫一妻多妾制)が成立したのと軌を一にした現象であった。
うわなり打ちは女性の強さの表れというより、「弱い立場」の表れといえる。
うわなり打ちの儀礼化
江戸時代、佐賀藩藩祖の鍋島直茂の前妻は離別後、後妻・陽泰院の家にうわなり打ちを仕掛けたが、陽泰院は動じず前妻を丁重に出迎えたという逸話もあり、うわなり打ちは健在であった。
享保年間(1716〜1736)に書かれた随筆「八十翁疇昔話」では、「百二三十年以前」(16世紀末〜17世紀初め)のこととして、うわなり打ちの実態が記されている。それは妻を離縁して5日ないし1ヶ月以内に夫が新しい妻を迎えた場合、先に離別された妻は必ずうわなり打ちを実行したという。
襲撃の際には親類縁者の女性など総勢20〜100人で新妻の家に押しかけ、その際は事前に襲撃を通告しておく決まりとなっていた。武器に関しては刃物は使用せず、木刀や竹刀や棒に限られた。破壊は台所を中心に鍋や障子などに対して行われ、一通り破壊した後で仲介者が和解を取り持つことになっていた。
鎌倉〜室町時代のうわなり打ちは相手の命まで狙われたが、江戸時代にはルールも整っていた。破壊の中心が台所というのも、そこが「女の城」と考えられていたからである。
これは物質的な破壊行為が目的ではなく、象徴的な儀礼としての意味合いが強いものであったとされる。
また、幕府から「うわなり打ち禁止令」などが出されたことはなかった。
中世から近世へなるにつれて暴力で解決するといった考え方は薄れ、うわなり打ちも変わっていき、享保期にはうわなり打ちは行われなくなったという。
有名なうわなり打ち
うわなり打ちを行った人物として有名なのが、北条政子である。
政子は源頼朝の妻であり鎌倉幕府の創業を支え、頼朝の死後は「尼将軍」として幕府に君臨した女傑である。
頼朝と政子は相思相愛の夫婦だったが、頼朝には浮気性の悪癖があったとされている。亀の前という女性を愛人とし、彼女の身を密かに家来のもとに預けていた。
頼朝は不遇時代を政子に支えてもらったこともあり、政子に頭が上がらなかった。頼朝の浮気は隠密裏に進められていたのだが、政子が出産のために別の屋敷に移ると、頼朝の行動は公然となった。
そして浮気のことが、出産を終えた政子に知られてしまう。
怒った政子は寿永元年(1182)、牧宗親という配下の者に命じ、亀の前を庇護している伏見広綱の屋敷を襲撃させた。伏見は亀の前を連れて、命からがら大多和義久という同僚のもとへ逃げ込んだ。
この事件を知った頼朝は、翌々日に亀の前が匿われている大多和のもとへ向かった。そしてこの時、襲撃実行犯の牧を騙して一緒に同行させたのだった。
大多和の屋敷で伏見と不意の対面となり、唖然としている牧に対して頼朝は
「政子を大事にすることは大変けっこうなことだ。ただ、政子の命令に従うにしても、こういう場合はどうして内々に私に教えてくれなかったんだ!」
と怒りをあらわにし言い放った。
頼朝は政子の命令自体は責められず、政子に直接言いたいことも言えないため、牧に怒りをぶつけたのだった。
地べたに頭を擦りつけて謝る牧に対して、頼朝は牧のマゲを掴み切り落とした。当時の武士にとってマゲを切られることは最大級の屈辱であった。牧は泣きながらその場を逃げ去ったという。
しかしこの事件は、頼朝が亀の前に乗り換えたわけではないため少々違った事例ではあるが、これが政子の行ったうわなり打ちである。
いつの時代も、浮気や不倫問題は永遠の悩みなのかもしれない。
参考文献
室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界 (新潮社)
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