日本史

長野県旧天龍村の奴隷制度「おじろく・おばさ」 インタビューをまとめてみた

前回の記事「20世紀まで続いた日本の奴隷制度 「おじろく・おばさ」~長男以外は奴隷」では、精神科医の近藤廉治氏が書かれた『開放病棟―精神科医の苦闘』を参考にしながら「おじろく・おばさ」について説明いたしました。

この書籍のなかには、3人の「おじろく・おばさ」にインタビューした際の様子が掲載されています。

今回の記事では、前回紹介できなかった「おじろく・おばさ」のインタビュー内容をまとめたいと思います。

インタビュー内容に関して、前回の内容と少し重なる部分がありますが、ご了承ください。

「おじろく・おばさ」とは?

 

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「おじろく・おばさ」とは、長野県南部の旧天龍村地域(神原村)にかつて存在した人口抑制のための家族制度です。長男以外の兄弟姉妹は結婚も外出もできず、長男のために一生働かなければならない、という非常に厳しい生活を強いられました。

戸籍にも「厄介」と書かれて、家族や社会から疎外された生活を送り、一生を終えたのです。

この風習は明治時代から昭和時代にかけて続きましたが、現在は廃止されています。

このような風習が生まれた背景には、山岳地域における耕地面積の少なさや食料生産の困難さ、そして人口増加に対応するために考え出されたと言われています。

しかしながら、人権や個人の幸せを無視した「おじろく・おばさ」は、現代の価値観から見れば非人道的であると言わざるを得ません。

詳しくは前回の記事を読んでいただければと思います。

どのように面接した?

近藤氏がいくら話しかけても「おじろく・おばさ」は無視するため、催眠鎮静剤であるアミタールを投与して面接を行いました。

アミタール面接とは、精神分析の一つで、麻酔薬や睡眠薬を使って患者の心の奥にある記憶や感情を引き出す方法です。患者は眠らない程度に薬物を注射され、医師と話すことができます。

このとき患者は普段抑えている緊張や不安、抵抗などが解かれ、心の中に抑圧された体験や葛藤を表現することができます。医師はその内容を分析して、患者の病気の種類や原因を診断したり、治療の方針を立てたりします。

アミタール面接は、第二次世界大戦中に戦争神経症の治療や、捕虜の自白に使われたことがあります。現在においては人権の観点から、精神医学的治療に限定されています。

画像:催眠鎮静剤のアミタール(商品名:イソミタール) public domain

それでは、3人の「おじろく・おばさ」に行ったインタビューの内容を見ていきましょう。

女性A(明治34年生まれ)

精神的な疾患の原因は確認できませんでした。

彼女は幼少時代、おとなしく、素直で、小学校の成績も上位でした。

24歳ごろまでは、隣家の養蚕の手伝いに行ったことがありましたが、その後は頼まれても行かなくなりました。

もともと無口で不愛想でしたが、27歳あたりからその傾向がさらに強くなりました。家族に逆らうことなく素直に家の仕事をしていましたが、家族との会話はほとんどありませんでした。

検査時には高血圧が確認されましたが、それ以外に身体的な異常は見られませんでした。

検査に訪れたとき、彼女は脱穀の手伝いをしている人々(4〜5人)と一緒に食事をしていました。しかし彼女だけが挨拶を返さず、他の人たちとの会話にも参加していませんでした。

診察の際、彼女は血圧の測定しか受け入れず、奥の部屋に逃げ込もうとしました。そのためアミタール面接を4回行いました。その結果、ようやく表情が少し和らぎ、笑顔を見せるようになり話すことも増えました。

彼女との会話から判明したことは「生年月日を知っていること」「学校はあまり好きではなかったこと」「友達は少しいたこと」「百姓や養蚕の仕事をしたこと」「他の家に行くのは嫌いだったこと」です。

面白いこと、楽しい思い出もなかったそうです。

彼女は10日間の労働で3円を稼ぎ、それで反物(和服などの作るための布地)を買いました。

18歳の時に義姉と飯田に行き、2日間滞在したことがありましたが、特に楽しいとは思わなかったそうです。

遊びに行ったのは子供の頃だけで、電車も見たことがなく、自動車も遠くを通るのを一度見ただけでした。新聞は見出ししか読まず、あまり字が読めないようです。

4年前、姉が食道癌で亡くなりましたが、特に悲しくはなかったそうです。分家した兄の家にも何十年も行っていません。

アミタールの効果が薄れると、彼女は不機嫌になって質問に答えなくなり、奥の部屋に逃げ込もうとします。

4回の面接でも、あまり親しみを感じることはありませんでした。

男性A(明治20年生まれ)

イメージ画像:「おじろく」にインタビューする医者

精神的な疾患の原因は見られません。

小学校時代は、中の上の成績を保ちつつ、おとなしくて几帳面な性格でした。

卒業後は、畑や山の仕事を手伝いました。18歳から20歳の間は、隣の大工のもとで技術を学びました。

人生の中で村を出たのは、21歳のとき、飯田まで徴兵検査に行ったことだけです。

26歳頃までは、畑仕事や近所からの大工仕事の依頼に応じていましたが、徐々に無口になっていきました。兄の言うことをきちんと聞き、畑や大工の仕事を根気よくこなしていました。

彼は人とすぐに打ち解けることができず、他人が来ると避けるか無視する傾向がありました。挨拶をしても反応しません。表情もあまり豊かではありませんでした。

しかし、兄が無理に診察に連れて来ると診察自体は拒否しません。ただ質問にはあまり答えませんでした。

彼はタバコを吸ったり、茶を飲んだり、勝手に囲炉裏の端に寝転がったりすることがありました。アミタールを使用すれば、簡単な質問には答えてくれました。

特に楽しいことや辛いことを感じることもなく、仕事をしてお金を稼いでいましたが、どれくらいの金額なのか気にしていません。友人もいません。

徴兵検査のために飯田まで歩いて行った際、往復で3日かかったそうですが、その旅行の時も何も感じなかったそうです。

女性と遊ぶこともなく、町を訪れることにも興味がありませんでした。

簡単な記憶の検査には応じますが、読み書きの検査には協力してくれません。新聞を読むことはなく、ラジオで浪花節を聞くくらいでした。

彼は自分で洗濯や修理の仕事をこなしていましたが、年齢のせいで大工の仕事はもうしていません。

世の中を嫌だと感じたことはなく、他人と話すことも求めていません。彼は現在の生活については特に希望も不満も抱いていません。

男性B(明治16年生まれ)

精神的な疾患の原因はなく、子供の頃は素直で陽気な性格だったそうです。貧しい家庭のため、小学校には行かず、農業に従事していました。

長兄が体が弱かったため、彼が代わりに集会に出たり、兄の5人の子供の面倒を見たりしていました。結婚はせず、経済的なことは兄が担当し、彼は兄の家族のためにただ働いていました。

身体的な異常はありません。

彼は「おじろく」でしたが、青年時代から家の大黒柱としてしっかりと働いてきました。そのため「おじろく」特有の閉じこもった生活をしていたわけではありません。他人との交流も嫌がらず、普通に挨拶もします。アミタール面接は必要ありませんでした。

彼は過去を懐かしむ様子もなく、何か寂しさを感じるような態度でしたが、兄の子供たちとは和やかに暮らしていました。彼の話によれば、家が貧しかったため学校に行くことができず、弟の2人だけが学校に行っていました。

彼の日常は朝から晩まで非常に忙しく、遊ぶ暇はありませんでした。

村外に出た経験としては、飯田まで繭(まゆ)を売りに行ったことがあり、とても楽しかったそうです。13里の距離を10貫の繭を背負って歩き、1貫目で32銭で売ったあと、1泊して米の飯を食べ、残ったお金は兄に渡しました。

飯田での思い出としては、2回ほど遊郭に行ったそうです。その後も行きたいと思ったことはありましたが、我慢しました。

夜這いに関しては、他人に笑われるのを避けるためにしなかったそうです。他の「おじろく」の中には夜這いをしていた人もいましたが、あまり良い印象を与えませんでした。

自分自身は「おじろく」であるため、結婚については考えたことはないそうです。家が貧しかったことも理由の1つでした。

彼は、自分が「おじろく」で生まれたことを損だとは思っていませんでした。むしろ、福の神として見られていたそうです。

「おじろく」として人から軽蔑されたこともなく、特別に大切にされたわけでもありませんでした。他人との交流は嫌ではなかったものの、やってみたいことや楽しみもなく、世の中に対しても何か感じることはありませんでした。寺参りもしなかったそうです。

近藤氏による考察は?

3人の「おじろく・おばさ」へのインタビューを終えて、近藤氏はどのような考察をしたのでしょうか?

次回の記事では、近藤氏による「おじろく・おばさ」の分析を見ていきたいと思います。

(次回に続く)

参考文献:近藤廉治(1975)『開放病棟―精神科医の苦闘』合同出版

 

村上俊樹

村上俊樹

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“進撃”の元教員 大学院のときは、哲学を少し。その後、高校の社会科教員を10年ほど。生徒からのあだ名は“巨人”。身長が高いので。今はライターとして色々と。
フリーランスでライターもしていますので、DMなどいただけると幸いです。
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