旅行で初めて行く土地や、近場でもあまり立ち寄ったことのない土地で、時折ギョッとするような怖い地名を見かけることがある。
そういう時は「なぜこんな地名がつけられたのだろう?」と好奇心が湧いてきてしまうものだ。
日本には多くの怖い地名、不思議な地名がある。
今回は旧地名も含めた物騒な響きのある地名に焦点を当てて、それぞれの地名の由来について解説する。
目次
死骨崎 (岩手県釜石市・大船渡市)
死骨崎(しこつざき)は、岩手県の大船渡市と釜石市の境に位置する岬の名で、死骨崎の近くには他にも首崎(こうべざき)、脚崎(すねさき)という意味深な名前がついた岬がある。
かつてこの付近には鬼が棲んでいたが、人の手によって討伐されてその遺骸は海に流された。そして鬼の首が流れ着いた岬が「首崎」、脚が流れ着いた岬が「脚崎」、それ以外の部分が流れ着いた岬が「死骨崎」と呼ばれるようになったという。
この地で殺された鬼というのは実は人間で、征夷大将軍・坂上田村麻呂に討ち取られた蝦夷の民だと考えられている。
鬼死骸 (岩手県一関市)
鬼死骸(おにしがい)は、岩手県一関市にかつて存在した鬼死骸村にあたる地域の名称だ。
鬼死骸村の付近には奈良時代から集落があったといわれ、かつては吾勝郷桜野荘と呼ばれていた。
しかし坂上田村麻呂が「岩手山の鬼」と呼ばれた伝説の蝦夷の首長・大武丸を討ち取り、その遺骸がこの地域に埋められたことから「鬼死骸」の名で呼ばれるようになったという。
鬼死骸村がなくなった今でも「鬼死骸」という地名自体は消えていない。大武丸の体が埋められたと伝わる場所には「鬼石」と呼ばれる大岩があり、源義家が勧請した鬼死骸八幡神社や、旧バス停で現在は観光用休憩所となった鬼死骸停留所が今も残されている。
ちなみに宮城県大崎市の温泉地として有名な鬼首(おにこうべ)の地名は、坂上田村麻呂にはねられた大武丸の首が飛んできた地であることに由来するという説がある。
死人沢 (宮城県加美郡加美町)
死人沢(しびとざわ)は、宮城県加美郡加美町にある成瀬川水系の川の名前だ。その物騒な名は、旅の僧侶が農民に殺された話に由来する。
その昔、1人の僧侶が托鉢の旅の途中で、ある農民の家で一夜の宿を借りた。
しかし、その翌日から誰もその僧侶の姿を見ることがなく「僧侶は一体どこに消えたのか?」と村人たちが噂をしているうちに、火打山の近くの沢で死体が見つかる。
村の当番が役人から命じられてその死体を片付けに行ったところ、その死体が例の僧侶であることがわかった。
僧侶の死体は焼けた火箸でめった刺しにされ、顔の皮が剥ぎ取られた見るも無残な状態で、どこに行ったか分からない僧侶の顔の皮は、隣の沢に捨てられたものと予想された。
その事件以来、僧侶の顔の皮が捨てられたと思われる沢は「面剥沢」、死体が遺棄されていた沢は「死人沢」と呼ばれるようになったという。
血洗島 (埼玉県深谷市)
血洗島(ちあらいじま)は、埼玉県深谷市にある地区の名で、2024年7月から発行される新1万円札の顔となる「近代日本資本主義の父」こと渋沢栄一の出生地として知られている。
「血洗島」という地名の由来は諸説あり、渋沢栄一は「赤城山のムカデが、日光山の大蛇と戦場ヶ原で戦った際に片腕を押しつぶされ、その傷をこの地で洗ったことに由来する」という談話を雑誌にて紹介した。
他にはアイヌ語で岸や末端を意味する「ケッセン」という言葉に「血洗」という字を当てた説や、かつてこの地で起きた合戦で、源義家の家臣の1人(もしくは源義家自身)が切断された片手を洗ったことから「血洗」と名付けられた説がある。
他にも現実的な由来としては、利根川の氾濫によって頻繁に水害が起きて土地が荒れたため、「地が荒れる、地が洗われる」という意味で「血洗」と呼ばれるようになったという説がある。
陸地にあるにも関わらず島と呼ばれる所以は、利根川南岸の氾濫原にあたる血洗島含むその周辺一帯が「四瀬八島」と呼ばれたことに由来すると言われている。
血吸川 (岡山県総社市)
岡山県総社市に流れる血吸川は、かつて吉備地方を支配していた温羅(うら、おんら)という鬼の血で川が赤く染まったことから、その名がつけられたと伝わる。
温羅は、桃太郎のモデルといわれる吉備津彦命に討伐された鬼で、総社市にある鬼城山上に築かれた鬼ノ城を根城にしていた。
しかし、温羅討伐のために朝廷から派遣された吉備津彦命が放った矢の1本が、温羅の左目に命中し、噴き出した血で真っ赤に染まったことから、鬼ノ城から南に向かって流れるこの川は「血吸川」と呼ばれるようになったという。
現実的な由来としては、製鉄を行っていた鬼城山から砂鉄混じりの土砂が川に流れ込み、砂鉄が錆びて川底が赤く染まったことから「血吸川」と呼ばれるようになったという説もある。
岡山県には他にも総社市赤浜や岡山市北区首部など、温羅にまつわる地名が多数ある。
岡山に旅行に行く際は、温羅伝説に着目して行き先を決めるのも面白いだろう。
血流れ坂 (神奈川県横浜市都筑区)
血流れ坂は、横浜市都筑区中川1丁目とあゆみが丘の間にあるという坂の名だ。
正確に言えば旧地名なのだが、現在でもGoogleマップでその名と場所が確認できる。
血流れ坂周辺は港北ニュータウンの一部として開発されたため、近くには大型店舗やマンション、住宅が多数建ち並び、その物騒な名前には似つかわしくない閑静な景観が広がっている。
その昔、血流れ坂の近くには処刑場があったと言われ、罪人の首から溢れた血がこの坂を流れ落ちたことに由来すると言われるが、江戸時代には血流れ坂周辺が旗本領であったことから、刑場が置かれていたのはそれ以前の古い時代のことだったと考えられている。
「血流れ坂」とされる現地周辺には、その名が記された看板や石碑の類が残されていないので、旧大山街道上にある「うとう坂」の別名という説や、本来はうとう坂とは別の坂で旧大山街道の西側にあった坂のことを血流れ坂と呼んだ説など、実に多くの論説が飛び交っており、刑場が実在したのかどうかさえもはっきりしていない。
さまざまな憶測が交わされる中で「血流れ坂」というインパクトのある地名が確かにある、もしくはあったということだけが現代まで伝えられているのだ。
ニュータウンと呼ばれる地域は郊外のあちらこちらにあるが、その多くが元々人が居住していなかった、もしくは居住できなかった土地を開発して住みやすく作り替え、居住者や商業施設を集めた地域だ。
かつては人が暮らす土地として活用されていなかった地域であれば、数百年から千年以上前に処刑場があったとしても、何ら不思議なことではないだろう。
人殺し (広島県神石高原町時安)
ここまで直接的な名称はなかなか珍しいが、人殺しという地名は広島県神石高原町(じんせきこうげんちょう)の時安地区に確かに存在している。
時は遡って室町時代、各地の権力者たちはこぞって山城を築いており、時安周辺にも数か所の山城が築かれて勢力争いが行われていた。
それから明治に至るまで、罪人とみなされた人々が殺された処刑場があったため、その地が「人殺し」と呼ばれるようになったといわれる。
場所的には時安地区と久留美地区の境界あたりにあり、道沿いに地名「人殺し」の由来と書かれた立て看板が立っている。
現在の地図上からは人殺しという地名は消えているが、地域の住民には人殺しの名で浸透しているという。
おわりに
水害が起こりやすい土地には、水を連想させる字や「龍」や「蛇」という字が入る地名が多いというのは有名な話だが、古くから伝わる地名には災害の危険性以外にも、その土地がどんな場所だったのか、何が行われていた場所なのかなど、多くの情報が隠されている。
あなたの家の近くにも、由来が気になる地名はないだろうか?調べてみれば興味深い歴史を知ることができるかもしれない。逆に好奇心を抱いてしまったことを後悔することもあるかもしれないが、そこは自己責任ということで悪しからず。
参考 :
日本の地名研究会 (著)『本当は怖い日本の地名』
石合六郎 (著)『吉備津彦命と温羅』
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