エピローグ
1,200年前の奈良時代に完成した『万葉集』は、日本最古の歌集です。
人々は、恋の歌・別れを悲しむ歌・死を悼む歌・旅の歌・天皇を讃える歌などを、喜怒哀楽を込めて詠みあげました。
その歌風は、現実生活における素朴な感動を率直に表現。それでいて、格調は雄健でおおらかな特徴を持ちます。『万葉集』は、日本の黎明期に生きた人々の「心の叫び」ともいえる歌集なのです。
【万葉集から古代史を読み解く】では、歌を詠んだ人物、そして詠まれた歌を通して、古代史の読み解きに挑戦します。
今回は、天武天皇の第一皇子・高市皇子が、妹の十一皇女(といちのひめみこ)の死に対し贈った挽歌から、歴史の真実に迫っていきましょう。
父天武と夫大友の争いに翻弄される
十市皇女は、天武天皇の第一皇女で、母は万葉歌人としても名高い、額田王です。
彼女の生誕は653(白雉4)年あるいは648(大化4年)とされ、678(天武7)年に薨去。25歳から30歳と若くして亡くなった女性でした。
そんな十市は、大化の改新事業を受け継ぎ、日本を律令国家へと導いた天武天皇の子供たちの中で、大津皇子・大伯皇女(おおくのひめみこ)と並び、悲劇的な生涯を送った人物とされます。
その理由は、彼女が嫁いだ夫が、天智天皇の長子・大友皇子であったからです。
大友は天智亡き後、近江朝廷の首班となります。しかし、天武と壬申の乱を戦い、敗れ、自害をしてしまいました。十一にとっては、父と夫が命を懸けて戦うという事態になってしまったのです。
壬申の乱は、672(天武元)年に起きたので、十一が648(大化4年)生まれとすると、24歳の時の出来事になります。彼女は勝者側の人物であったので、夫大友と生死をともにすることなく、乱後は父天武のもとに身を寄せ、明日香の浄御原宮で暮らしたと考えられています。
『水鏡』『宇治拾遺物語』などによれば、十一は天武のスパイとして近江朝廷の情報を流していたとの記載があり、これにより十一と大友の夫婦仲が悪かったともいわれますが、この逸話は後世の作り話しという説が一般的。むしろ、大友との間に葛野王(かどのおお)をもうけていること、大友に十一以外の妃の記録がないことから、二人の仲は良好であったと考えて問題なさそうです。
ただ何にせよ、明日香での彼女の立場は、辛いものであり、大友を失ったことによる傷心を抱えて暮らしていたことでしょう。
失意と傷心の中で訪れた突然の死
十一の明日香での動静はほとんど記録に残っていません。ただ、675(天武4)年には、天智の娘で、草壁皇子の正妃である阿閇皇女(あへのひめみこ)とともに、伊勢神宮へ参拝したとの記録があります。
この時、おそらく十一に仕えていたであろう女官の吹黄刀自(ふふきのとじ)が詠んだ歌が『万葉集』に収められています。
河上の ゆつ岩群に 草むさず 常にもがもな 常処女にて (巻第1-22)
意味「川の畔の神聖な岩にいつまでも苔が生えないように、わが姫君も、その岩のように変わらず、永久に美しい乙女でいらっしゃってほしい」
この歌から伺いし得れるのは、吹黄の十一に対する溢れんばかりの思いやりです。既婚で皇子を生んだ皇女に対し、「永久に美しい乙女でいらっしゃってほしい」と述べているのは、十一の不運な身の上に同情するだけでなく、彼女の愛されるべき人柄があってのことと思われます。
この伊勢詣でには、壬申の乱の戦勝報告、草壁の立太子の報告など様々な説が唱えられています。
だがここは素直に、天武が十一の傷心を癒すために、派遣したと考えたいものです。
そして、その3年後の678(天武7)年4月7日の朝、十一は突然この世を去ります。
この日は、ちょうど天武が倉橋河の河上にたてた斎宮に出向く日でしたが、天皇は行幸と斎宮での祭祀を中止しました。
この記録は、『日本書記』に「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されており、天武は、娘の死に号泣したと伝わります。そして、十一は、4月14日に大和の赤穂(あかほ)の地に葬られました。
かつての敵将であり兄である高市の挽歌
天武以外にも、十一の死を悼む人物がいました。
それは、天武の長子である高市皇子です。彼の歌は『万葉集』に、3首収録されていますが、その全てが十一への挽歌でした。
みもろの神の 神杉已具耳矣自得見監乍共 寝ぬ夜ぞ多き(巻第2-156)
意味「あの三輪の神杉のように手を触れることもなく、いとしく思う姫にせめて夢で逢いたいと思い、眠れぬ夜を多く過ごしてきた。」
三輪山の 山辺まそ木綿 短木綿 かくのみゆゑに 長くと思ひき(巻第2-157)
意味「三輪山に捧げる麻の木綿、その短い木綿のように貴女の命は短いものだったのか。私は貴女の命はもっともっと長いと思っていた。」
山吹の 立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど 道の知らなく(巻第2-158)
意味「山吹の花が咲きにおう山へ貴女の命を蘇らせるという清水を汲みに行きたいと思うけど、どう行ってよいのか、私にはその道がわからない。」
この3首の内容も、高市の十一に対する愛情が溢れています。そこから、十一は高市の妻になったのではないかとの推測が生まれました。しかし、高市には、天智の皇女である御名部皇女(みなべのひめみこ)という正妃がおり、二人の間には有名な長屋王が誕生しています。
実は、高市は十一の妹である但馬皇女も愛人にしていたとの説もあり、あろうことかその但馬は、高市の弟・穂積皇子との熱烈な恋愛スキャンダルを引き起こしています。
高市・穂積・十一・但馬という異母兄妹たちが入り乱れて、恋愛関係を構築していたというのです。これを、古代人の恋愛に対するおおらかさとする学者も多いようですが、果たしてそうでしょうか。
高市は、壬申の乱の最大の功労者です。乱に勝利できたのは、彼の軍事的指導力によるところが大きかった。だが、高市は母の身分が地方豪族出身のため、上位の皇位継承者になれませんでした。
それにもかかわらず、自らを父天武の臣下として隠忍自重し、天武亡き後は持統にも信頼されます。そして、その政権では朝廷首班の太政大臣に任じられ、薨御まで皇族・臣下の頂点に立ち持統を支え続けました。
そんな高市だからこそ、数多い天武の皇子・皇女をまとめ上げることができたのではないでしょうか。
つまり、但馬皇女は愛人ではなく妹として養育。大友への思慕の情を消し去ることができない十一に対しても、その生活を保護するとともに、優しく見守っていたと考えるのです。
高市の十一への挽歌は、妹の人生を不幸に貶めたという、彼自身の痛恨の情の現れであったと思われてなりません。
奈良高畑に残る十一皇女の墳墓伝承地
奈良公園から徒歩で15分ほどの奈良市高畑町に、光明皇后が聖武天皇の病気平癒のために建立した新薬師寺が建ちます。それに隣接するように、小さな社・比賣神社(ひめじんじゃ)が鎮座します。
ここには元々、「比賣塚」と呼ばれる古墳があり、地元では高貴の姫君の墓という言い伝えで知られていました。
そして、『日本書紀』に十市を埋葬したとされる「赤穂」の地として近隣の赤穂神社が有力なため、比賣塚が十一の墓所であると推定され、1981(昭和56)年に、地元住民などの尽力により神社が創建されたのです。
ちなみに比賣神社は、新薬師寺の鎮守である南都鏡神社(なんとかがみじんじゃ)の摂社です。鏡神社は祭神を藤原広嗣としますが、十一の母額田王の父は、宣化天皇系の皇族・鏡王(かがみのおお)とされていて、何らかの関連性があるのではとの興味を惹かれます。
比賣神社は、天平建築と国宝の仏像で知られる新薬師寺のすぐ隣にありながら、その小さな社と謂れに目を止める観光客はほとんどいません。
後に弘文天皇の漢風諡号を贈られ第39代天皇となった大友皇子の正妃でありながら、歴史の狭間に消えていった十一の奥津城に相応しいと感じるのは筆者だけでしょうか。
新薬師寺参詣の折には、ぜひ十一皇女の面影を偲びつつ、手を合わせていただければと願います。
※参考文献
板野博行著 『眠れないほどおもしろい 万葉集』王様文庫 2020年1月
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