唐・新羅と戦った白村江の戦いの従来説
日本が律令国家へと歩みを進める大きな契機となったのが、645年に起きた乙己の変(いっしのへん)と、それから始まる政治改革・大化の改新です。
大化の改新を主導した中心人物は、乙己の変を断行し、蘇我氏本宗家を倒した中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足です。しかし、改新政治は、天智崩御の後、壬申の乱を経て、天武・持統朝で完成します。
今回はその過程で起きた「白村江の戦い」について、その真の目的を探っていきます。
では、この戦いはどのようなものだったのか、先ずは通説に従って説明しましょう。
「白村江の戦い」は、663(天智2)年に朝鮮半島の白村江で行われた、倭国(日本)・百済遺民連合軍と唐・新羅連合軍との戦いで、日本側の指導者は、斉明天皇の皇太子・中大兄皇子でした。
ことの発端は、660年3月、日本にもたらされた百済滅亡の報です。唐の13万にもおよぶ大軍と新羅の5万の援軍が、百済の義慈王を能津城に追い詰め降伏させました。
しかしその直後、百済遺民が反乱を起こします。
彼らは百済再興のために、倭国にいる百済王子の余豊璋(よほうしょう)を即位させるため、その帰国を願う使者を倭国に送ってきたのです。
これに対し、斉明天皇は百済援助のため朝鮮半島へ兵を送ることを決め、661(斉明7)年正月、70歳近い老齢ながら自ら兵を親率し、朝倉庭宮(現福岡圏朝倉市)に入ります。
この出兵は、天皇以下、中大兄皇子・大海人皇子など、朝廷中枢部のほとんどが参加する大規模なものでした。
ただ、出兵には当初から暗雲が立ち込めます。この年の7月に、斉明が崩御。中大兄は大王位に即位しないまま執政する称制を行い、磐瀬仮宮(元福岡市南区三宅)に対新羅戦の前線基地を構え軍事指揮を執りました。
そして8月、豊璋に当時倭国の最高官位である職冠を授け、5,000余の第一次軍を派兵。豊璋は、朝鮮半島に上陸すると、百済遺民たちに推されて百済王に即位します。
続いて、663(天智2)年3月に、3万弱の第二次軍。さらに8月に1万余の第三次軍を派兵し、待ち受ける唐・新羅の連合軍と、白村江で本格的な戦闘に入りました。
結果は、周知の通り、倭国と百済連合軍は大敗を喫し、遠征軍の多くが死亡。豊璋は戦線を離脱した後、行方不明(あるいは流刑)になり、ここに百済は完全に滅亡したのです。
中大兄皇子らが意図をもって画策した戦争
白村江の戦いの敗戦について、当時の倭国の支配者が世界帝国・唐に対して無謀な戦いを仕掛けた結果だと、ほとんどの社会の教科書に記されており、そのように学校で習った人が多いのではないでしょうか。
つまり、中大兄・鎌足たちの、国際情勢の認識不足や外交戦略の未熟さが招いたものだったと定義づけています。
しかし、それは本当でしょうか。古代における日本と朝鮮半島の交流は、現代の日本人が考えているより遥かに盛んでした。
630年(舒明2)年に始まった遣唐使は、白村江の戦いの前では、653(白雉4)年、654(白雉5)年と続き、直前の659(斉明5)年にも派遣され、661(斉明7)年に帰国しています。
この回の遣唐使たちは、唐・新羅連合軍による百済滅亡の影響を真っ向から受け、帰朝が1年遅れているので、最新の唐や朝鮮半島の情勢を朝廷中枢部に報告したとみて間違いないでしょう。
つまり、中大兄・鎌足・大海人らは、圧倒的な唐の兵力と、これも圧倒的に不利な百済の状況を知りながら、倭国軍の朝鮮半島出兵を決断したのです。
しかし、彼らのこの決断は従来言われているような「愚かさゆえの蛮行」であったのでしょうか。
それよりも、倭国を律令国家・日本に変貌させていく鋭敏な中大兄や大海人が、何か別の意図をもって白村江の戦いを起こしたと考える方が、自然だと思うのです。
ここからは、中大兄らの意図を考えつつ、この戦いの真の目的に迫っていきましょう。
戦いの目的は「対外戦争による国内統一」
倭国首脳部が、白村江の戦いを起こした真の目的として、最も考えられるのが「対外戦争による国内統一」ではないでしょうか。
遣唐使の報告などにより、中大兄・大海人らは唐の兵力や武器、特に海戦を左右する唐と倭国の艦船の差を知っていました。だから、この戦いは負けるかもしれないと予測していたのかもしれません。
中大兄が目指した大化の改新政治の根本は、公地公民をベースに、大王を頂点とする中央集権体制です。しかし、その潤滑な促進を阻んでいたのは、従来の既得権を守ろうと必死な豪族層と国造層でした。
彼らを土地や人という既得権から引き剝がし、中央政府の命に従わせるためには、大規模な対外戦争が必要だったのです。
そして、たとえ負けたとしても「あの世界帝国・唐に敢然と戦いを挑んだ偉大な指導者・中大兄」をアピールできます。
白村江の戦いは、ある意味で勝敗を度外視した戦争であり、大王家と豪族・国造が一体となってあたることで、中央集権国家の完成を効果的にすすめる目的があったのです。
敗戦を契機に中央集権体制を固める
この推測をもう少し飛躍して考えると、中大兄らは白村江の敗北を、半ば歓迎していた可能性もあります。
それは、唐・新羅連合軍が、その余勢を駆って倭国に攻め込んでくるという危機感を煽ることにより、国内権力の集中を強化したのです。
事実、その防御のために九州に大宰府を設置し、防人を配置、水城を造り、そして各地に巨大な山城を築きました。
さらに中大兄は、国内権力集中のために、豪族層の支配地である大和から離れた近江の大津宮に遷都。668(天智7)年に即位して、天智天皇となりました。
ここで、近江令を作成。冠位を二十六階へ拡大し行政機構を整備。670(天智9)年には、最初の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作っています。
このように、中大兄は白村江の敗戦を契機として、堰を切ったように中央集権体制のための諸政策を実行に移しているのです。
こうした政策は、唐・新羅の来襲を煽ることと同時に進めているのですが、唐は、高句麗討伐の後、新羅と不仲になり、とても倭国侵略などに力を注ぐことはできませんでした。
もちろん、そうした情報を中大兄らは、665(天智4)年から、2年毎に派遣された遣唐使により得ていたのです。
白村江の戦いは、その敗戦も含めて、天智天皇をはじめとする大化の改新派が描いたシナリオ通りにすすんだ戦いであったと、考えても良いのではないでしょうか。
※参考文献
『新説戦乱の日本史』SB新書 2021.8
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