結束の固い徳川家臣団にあって、外様だった井伊直政が「徳川四天王」とまで呼ばれるまでの身分となった。しかも、その中では最も若い。
苛酷な幼少期を経て、どのように井伊直政は徳川家随一の家臣となったのだろうか?
井伊の赤備え
※井伊直政
天正12年(1584年)、尾張を中心に美濃、伊勢、紀伊などの各地で羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の軍勢が戦いを繰り広げた。
小牧・長久手の戦いである。
この戦場に装備の全てを赤で統一したある集団がいた。
井伊直政率いる「井伊の赤備え」だ。その戦功は主君である徳川家康を絶賛させ、赤一色の精鋭部隊はその存在を戦国の世に示した。
もともと「赤備え」とは武田氏の家臣、山県昌景が率いた騎馬隊である。その勇猛さは、三方が原の戦いで負けた徳川家康が誰よりも知っていた。後に武田氏が滅ぼされると家康はすぐさま残された家臣たちを召抱えて、井伊直政の下に配する。
このようにして武田氏の赤備えは徳川家に甦り、「井伊の赤備え」として誕生したのだ。
皮肉にも山県昌景は「武田四天王」の一人であった。
高崎での内政
※高崎城・乾櫓
家康が秀吉に従うことになると、秀吉もまた直政の軍事的・政治的才能を高く評価し、徳川家臣団のなかで最高位の官位を与えた。もっとも、本来は朝廷が官位を授けるものだが、この時代の官位は時の実力者により勝手に授けられるものが多く、この場合も「評価の目安」と見るべきだろう。
秀吉の小田原征伐にも参戦し、難攻不落の小田原城内まで夜襲を掛けたという。兵糧攻めを決めた豊臣軍の中で、唯一積極的な戦いを仕掛けたのである。勿論、それで大局が変わることはなかったが、その名を知らしめるには十分な効果があった。
天正18年(1590年)、家康は関東に移封することになる。
井伊直政も上野国箕輪(現・群馬県高崎市)に12万石の所領を与えられた。他の四天王である本多忠勝や榊原康政が10万石、高齢の酒井忠次は隠居しており、長男の家次が3万7000万石を受けたが、その差は歴然である。
慶長3年(1598年)、直政は交通の要衝という理由により、箕輪城から南の和田城に移るが、このときに城の名も高崎城と改名した。当初は「松ヶ崎」とするはずだったが、信頼する和尚に相談したところ、「成功高大」の意味で「高崎」にしてはどうかというアドバイスがあり、高崎に決めたという。
井伊直政 の外交力
※関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡
慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると権力のバランスが大きく変動する。
家康はこの機を逃すことなく直政を豊臣方の武将を味方にするための交渉役に任じた。ここでも直政は、全国の諸大名を相手に見事その大役を果たす。交渉役とはいうが、実際には外交工作という形でその手腕を発揮した。
後に関ヶ原の戦いの舞台となる美濃国ゆかりの武将4人引き入れたことも東軍の勝利に貢献したといえよう。さらに黒田官兵衛、長政親子とは同盟を結ぶまでになり、この黒田家とのパイプが他の武将を徳川に組み入れる大きなポイントとなった。
関ヶ原の戦いにおいては、本多忠勝と並び東軍の軍監(監督役)となり、家康のすぐ下で東軍全体を指揮するという重要な役割を担っている。さらに合戦後の処理においても、石田三成が処刑されるまで手厚く保護し、西軍総大将・毛利輝元との講和交渉も行った。毛利との交渉では、2ヶ国の領地が安堵されたことに感謝されるほどであったという。他にも、長宗我部元親・盛親親子や島津氏との和平交渉を担当している。
このように、直政は武芸だけではなく、内政、外交、戦略と、多くの面でその才を極めていたことが分かる。
家康の信頼
※井伊直政像(彦根駅前)
このように多才であれば、家康の信が厚いというのもわかるが、逆に家康や他の家臣に危険視されるようなことはなかったのだろうか。
才能ある主君ほど才能ある臣下に対して警戒するというのは往々にしてある話だ。
だが、そもそも井伊直政という人物を見出したのも家康であった。その背景には井伊家復興の話などもあるが、今回はさておき、若くして家康に仕えることになった直政はすぐに頭角を現した。家康の養女を妻として、徳川一門となり、その後も家康のそばで仕えてきたのだ。
譜代大名でなかろうとここまで長く一緒にいれば警戒することもないだろう。また、政治力が弱いとされる他の家臣たちの中にあって、直政の外交力や調整力は貴重なものであった。同じく徳川四天王のひとりである本多忠勝も武勇に長け、内政能力も高かったが、外交という面では直政ほどの功績はない。
もっとも、このスピード出世の裏には「井伊家という名家だったため」「養女とはいえ、家康の娘が妻であるから」など諸説あるようだが、出自や縁故だけでここまで出世することはあり得ない。
つまり、裸一貫から己の実力で這い上がってきた叩き上げだけに、誰も異を唱えることなど出来なかったというわけだ。
最後に
直政には、「井伊の赤鬼」と並び、もうひとつの異名があった。「人斬り兵部」である。兵部(ひょうぶ)とは直政の官位に由来するが、旧武田の家臣を多く抱えた直政の家臣団は、その結束力を高めるために失態を犯した家臣を手打ちにすることを厭わなかったという。
これも家康の期待に応えるためであり、後年、家康は息子・秀忠の妻に当てた手紙で「何事もまずは直政に相談するようになった」と記している。
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