天正10年(1582年)、中国地方の覇者、毛利氏の前線拠点・備中高松城を3万の軍勢で包囲した羽柴秀吉は
「平城を数年にわたって改修強化し、そのうえ城の三方は深田で、攻めよせることができない」
と知人への書状の中で状況を分析した。
足守(あしもり)川、血吸(ちすい)川の二本の河が流れる低湿地に囲まれているために身動きできず、北の竜王山塊の高みしか城を攻める箇所がないというのだ。この解決策として秀吉は
「周囲に堅牢な堤を築き、近所の川の水を誘導し、水攻めにする。すでに高松城の支城の土塁は水面下に沈んだ」
と続けている。
このときすでに有名な「高松城水攻め」が開始されていたのだ。
巨大な堤防
秀吉は米6万3,500石と銭63万5,000貫を用意して、周辺の農民たちに土俵ひとつあたり米一升と銭100文で買い取ると好条件で触れまわったため、あっという間に膨大な数の土俵が集まって城の南に全長3km(一説に4km・12kmともいう)・高さ8m、底の幅24m、上部の幅11mの大規模な堤防が完成した。工事日数はわずか11~12日に過ぎない(『武将感状記』『太閤記』ほか)
足守川の堰き止めのために大石を積んだ船の一群を同時に沈めるなど、秀吉の軍師・黒田孝高(如水)が工事の方針に大きく関与したと伝えられている(『黒田家譜』)。
工事開始の5月8日は、現在の暦で6月8日、折しも時期は梅雨時である。一帯では多量の降雨が続き、みるみる足守川の水位は上昇した。その水は堰によって堤防の内へと導かれる。その上、秀吉は山奥の谷川からも樋をかけて水をひいてきたという(『太閤記』)。
浮き城となった高松城
太閤記には最初の5日ぐらいは水が溜まる様子は見えなかったが、10日ほど経つと地形的に一番低いところは完全に水面下に没したとある。
包囲面積が広かったため、当初は流入する水も地表から吸収されてしまったものが、やがて地下水も飽和して地上に溜まり始めたのだ。この時間経過は秀吉が19日に「支城の土塁は水面下に沈んだ」と記したのと完全に一致する。
やがて城は湖の中の浮き城のようなありさまとなった。城内は海のようになり、各所との連絡も取れない。高い木の上に板を敷いて過ごし、城内の行き来には小舟を使う始末で戦闘どころではない。
素早い秀吉の判断
対する秀吉は、堤防の上に柵を巡らせ、昼夜の区別なく厳重に城を監視させてネズミ一匹城の出入りができないようにしていた。
5月21日には毛利軍本隊4万が援軍として到着したが、秀吉は湖上の島のようになった高松城には最低限の兵を置き、主力を毛利軍との対峙に回すことが可能だった。
城内の籠城兵5000は、退却することも出撃することもできず、日に日に体力と気力を消耗していく。ついに6月4日、城の主将・清水宗治(しみずむねはる)は降伏を決意し、船で城外へ出て切腹して果てたのだった。
この「高松城水攻め」の成功の理由について分析してみよう。
まず、城の立地についてだが、足守川と血吸川が南で合流する一帯は秀吉の言葉通り三方向を低湿地で囲まれており、地下に吸収される水の量が最小限で済んだ。水が溜まり始めるまでの5日間という期間は、それでも短い方だったのだ。水攻めは時間と人的被害を最小限に抑えることができるが、高松城攻めには最適な条件が揃っていた。城が低地にあることが重要で、当然ながら高いところにある城に水を導こうとしても無駄である。さらに可能な限り短い距離の堤防で可能な限り最大限の量の水を導き入れるために至近距離の河川を利用する。これには足守川と血吸川があり、大量の水の圧力に耐えうるだけの大規模な堤防を築く必要があるが、これも秀吉による素早い判断で初期の段階から大規模な堤防を作りあげていた。
織田家ならではの攻め方
他の理由としては堤防によって水没させる面積が河川の流量に対して適切だったことも大きいだろう。
雨による増水を加味し、200haに及んだという水没想定面積から逆算して、工期と工事仕様を設定するという綿密な計算がなされていたことには驚くほかない。
この計算を可能にするには測量技術、築堤に関する土木技術、河川改修(堰き止め)の治水技術に併せ、大規模な工事を実現する資金、大量の物資を集積するための流通整備のノウハウも必要である。この点で秀吉は手持ちのカードで最大限の効果を発揮させたといえる。
さらに「ハイコスト」で「一定の時間を要する」戦法が織田家で容認されていたことも大きい。主君の信長自身、北近江の浅井攻めや大阪・石山本願寺攻めで数年以上の長期戦を経験しており、秀吉の同僚である明智光秀も丹波の八上城攻めに3年以上を費やしている。秀吉自身も播磨三木城攻め・因幡鳥取城攻めでそれぞれ2年近くの長期戦をおこなった。それらに比べれば、備中高松城攻めは費用的にも時間的にもより良い選択肢だったともいえる。
高松城攻めでその効果を証明した水攻めは豊臣秀吉得意の戦法となり、のち尾張(のち美濃)竹ヶ鼻城や紀伊太田城攻めでも使われている。
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今年 2018年の大雨で倉敷 そうじゃは大変なことになった。
昭和60年6月にも水浸しになっている。
なぜ こういう話をただの話としか
きけなかったのだろう。
きょうくんがたくさん含まれているというのに。
誰がラオスを水攻めしろと
今回の中国地方の災害のニュースを聞いて真っ先にこれを連想した。
水浸しになりやすい地域なのかなって。