黒田家の股肱の臣
栗山利安(くりやま としやす)は、通称を善助(ぜんすけ)と言い、黒田孝高(官兵衛)・長政父子に仕えた股肱の臣として知られています。
利安は、同じく黒田家家臣の母里友信(もりとものぶ)とは義兄弟でしたが、派手な逸話の多い友信に比べると一般的な知名度は決して高いとは言えないかもしれません。
しかし、この利安こそ後には黒田家の筆頭家老を務め、その家中の序列にあって一番であることから「一老」とも呼ばれた武将でした。
そんな利安は、天文19年(1550年)に播磨国の姫路は栗山に生まれ、永禄8年(1565年)頃から孝高に仕えたとことで武士としての第一歩を踏み出しました。
主君 黒田官兵衛の幽閉
利安は、永禄9年(1566年)に初陣を飾り、3年後の永禄12年(1569年)の青山・土器山の戦いにおいて首級を2つ挙げる武功を立てました。
この功で孝高から83石の禄を与えられたとされています。またこの前後に新たに仕官して黒田家臣となった母里友信と、義兄弟の契りをかわしたものと言われています。
天正6年(1578年)に織田信長に対して荒木村重が謀反を起こすと、主君・孝高は村重の説得のため、その居城・有岡城へと出向きました。しかし孝高はそのまま荒木勢に捕らえられ、幽閉されてしまいます。
利安らは孝高の安否が不明な中でも、留守職中連署起請文に名を連ねて主家を支え、翌天正7年(1579年)に無事に孝高を救出しました。これに深い謝意を示した孝高は、利安に褒美として馬を与えたと伝えられています。
因みにこの幽閉の際に信長は消息不明となった孝高が荒木方についたものと見做して、人質としていた長寿丸(後の長政)の処刑を秀吉に命じてたとされています。
この命を秀吉の軍師・竹中半兵衛が機転を利かせて処刑したふりをして救ったものとも伝えられています。
秀吉の天下取り
この後も孝高と共に秀吉の中国征伐に従軍した利安は、三木城、鳥取城、備中高松城などの戦いに加わっています。
天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、秀吉の「中国大返し」として畿内に進軍し、光秀を討つ戦にも参加しました。
秀吉が天下を取ると、天正16年(1588年)には孝高が豊前馬ヶ岳城の領主に命じられました。それに伴って利安も6,000石を賜ることになり、同時に平田城代も務めることになりました。
文禄2年(1593年)に入り孝高が隠居をすると、子の長政に仕えて朝鮮出兵にも従軍、晋州城の戦いなどで功を挙げました。
関ケ原の 栗山利安
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、利安は重要な働きを見せました。
石田三成が人質を取ろうとすることを予測して、大坂屋敷にあった黒田家の2人の姫(光姫、栄姫)を、領国である豊前中津まで無事に脱出させたのです。
さらに、自らも孝高と共同して豊後に出兵、西軍に与して兵を挙げた旧・領主の大友義統と石垣原の戦いを繰り広げました。
関ケ原本戦で東軍に与した長政が戦後に筑前一国へと加増・移封されると、利安も筑前朝倉郡に1万5,000石を与えられて、麻底良城主となりました。
同時に、利安の息子・利章にも別途で3,300石が与えられ、父子で凡そ2万石を領しました。
この時に利安は黒田家筆頭家老にも列せられ、黒田家一門以外の家臣の中で碌・家格ともに第一の臣となりました。
晩年の 栗山利安
利安は、元和3年(1617年)には利章に家督を譲って、続く元和9年(1623年)に長政が死去したことから自らも隠居をして、一葉斎卜庵を称しました。その後、寛永8年(1631年)まで生き、享年82歳で大往生を遂げました。
因みに利章は、後に福岡藩の第2代藩主となった黒田忠之と対立することになり、黒田騒動と呼ばれた大きなお家騒動の中心人物という立場を演じる事になりました。
徳川幕府による裁定では「栗山利章は乱心した」という結論に至り、その身柄は陸奥の盛岡藩預かりとされました。
しかし、自らを犠牲にして主家・黒田家を改易から救った忠臣という見方を森鴎外が小説で示したこともあり、今日でもその評価が別れる出来事となっています。
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