安土桃山時代

織田有楽斉について調べてみた【織田家随一の茶人】

茶道に生きた信長の弟、織田有楽斎

戦国時代は実は風流が大事にされていた時代である。
戦の戦功に領地より茶器を所望する武士がいるくらい茶道が大切にされており、意外と常識人が多いように見える。

そして、茶道といっても様々な流派があり、様式も様々である。
今回は茶道の流派の一つである有楽流を創設した織田長益(おだながます)こと織田有楽斎(おだうらくさい)について取り上げてみたいと思う。

織田信長の弟である有楽斎はどのような生涯を送っていたのだろうか。そして、武家の織田家中でどのようにして茶道に目覚めたのかも気になるところである。

武勇には秀でてなかった

織田有楽斎

※織田有楽斎 wikiより

有楽斎は天文16年(1547)に織田信秀と側室の間で誕生する。信長を含めた兄弟の中では11男にあたり、3男の信長とは13歳も年齢差があった。

有楽斎の初陣は前田利家が織田軍に復帰した戦ともいえる永禄4年(1561)の森部の戦いだった。有楽斎は佐々成政(さっさなりまさ)と共に進軍していたが、初陣の有楽斎の手助けをしている内に佐々軍の動きが悪くなってしまい、そのことで信長から不評を買っている。
加えて落馬して負傷したことにより、森部の戦い以後、信長時代の多くの戦では補給係や裏方を任されるようになったとされている。

また、有楽斎は信長の傅役(教育係)で茶人の平手政秀が生前時に茶道の他に禅宗や仏教などの中国や日本の軍略や文化を学んでいる。
そこで、茶道にのめり込んだ有楽斎は故人である武野紹鴎(たけのじょうおう)を師として仰いだとされている。

平手政秀から多くを学んだ有楽斎を信長は嫡男である信忠の近習とした。これは有楽斎が武ではなく智の方で優れていたことと、茶道を好む穏やかな性格で敵意を向けることはないと信長が考えたためと考えられる。

信忠の近習となった後は天正10年(1582)の甲州征伐に従軍し、木曽義昌と共に鳥居峠を攻略した。甲州征伐で武田家を滅亡させた後は深志城(現松本城)の受け取り役をつとめている。

本能寺の変で一変する

※織田信雄 wikiより

同年6月には兄である信長が家臣の明智光秀によって本能寺で自害する本能寺の変が起こる。

有楽斎は信忠と共に宿泊地の妙覚寺にいたが、二条御所に移動している。しかし、二条御所は明智軍に包囲されていたので、有楽斎は信忠と共に自害をすることを約束し、自害を促している。信忠は言いつけ通り自害したが、有楽斎は明智軍の隙をついて二条御所から脱出している。そのような行動により世間では非難されることになる。

脱出した後は信長の息子の信雄を頼り、検地奉行を任され実績を残している。そして、天正12年(1584)に起こった小牧・長久手の戦いでは信雄・徳川家康陣営に加勢し、その過程で起こった蟹江城合戦では大野城にいる山口重政の救援と下市場城の攻略に参加した。小牧・長久手の戦い後に行われた豊臣秀吉と家康との講和の仲介役を務め、また天正13年(1585)に富山の役で降伏した佐々成政と秀吉の間を取り持った。その功績により翌年には豊臣姓を貰っている。

千利休に弟子入りをする

※千利休 wikiより

有楽斎はこの頃に千利休(せんのりきゅう)に弟子入りをし、茶道をより一層学んだ。そして、有楽斎だけ台子(茶道に使用する茶道具)の相伝を直接受けており、特別な間柄だった。このことにより利休の高弟を指す利休十哲の1人に数えられている。

信雄が天正18年(1590)に秀吉の怒りをかってしまい改易された後は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として側近くに仕え、読み書きが不得手な秀吉の耳学問の師となった。この頃に剃髪をし、長益から有楽斎と名を改めている。また、姪の茶々とは血縁者ということもあり、関係が深く秀頼の出産に立ち会っている。

秀吉死後の有楽斎

※徳川家康 wikiより

秀吉が慶長3年(1598)に病死した後、家康と利家が対立した。その時、有楽斎は家康の元へ駆けつけ徳川邸の警護をしている。続く慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、450という少ない兵数ながらも石田三成隊の横撃隊を撃退し、三成の家臣である蒲生頼郷を討ち取るなどの活躍を見せた。関ヶ原の戦いの後はその功績が認められ大和国に3万2000石の所領を与えられた。

その後は豊臣家に戻り、叔父として茶々を補佐した。慶長19年(1614)に起きた大坂冬の陣では大坂城におり、穏健派の大野治長と共に籠城戦を戦った。冬の陣後は治長と家康に和平交渉を行い、和睦した。大坂夏の陣では、和睦をしたのにも関わらず再戦をしようとする豊臣陣営に愛想を尽かし、家康と徳川秀忠から許可を得て、豊臣家を後にした。

大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念した。その時に茶道有楽流を創設したとされている。京都で静かに余生を過ごした有楽斎は元和7年(1622)に75歳の生涯を終えた。

まとめ

織田兄弟の中で一番長生きした有楽斎。武勇はなく武士としての素質はなかったのかもしれない。そのこともあってか本能寺の変では汚名を被りながらも生きることに執着したのではないかと考えてしまう。

余生は趣味の茶道に時間を費やし、悠々自適に生きてきた有楽斎が織田兄弟の中でも一番、自分の思うままに生きてきたと思えるような人生を歩んでいたと思えるのではないだろうか。

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