宇喜多秀家とは
宇喜多秀家(うきたひでいえ)は27歳の若さで豊臣五大老になった武将である。
わずか10歳で家督を継ぎ、温厚で利発であったために豊臣秀吉に気に入られて、秀吉の養女を娶って秀吉一門衆の仲間入りをする。
しかしその後の関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流されることとなった宇喜多秀家の人生について追っていく。
生い立ち
宇喜多秀家は元亀3年(1572年)備前国(現在の岡山県)岡山城主・宇喜多直家の次男として生まれる。
父・直家は戦国の謀殺王として、敵を暗殺や毒殺で殺すというやり方を用い、土豪から大名になった下剋上の代表的な武将である。
父・直家は毛利家を見限り織田信長に臣従していたが、天正9年(1581年)秀家が10歳の時に病死する。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の仲介によって信長から本領安堵が許されて、わずか10歳にして秀家が家督を継いだ。
父の直家は秀家をとても可愛がり秀吉に「私が死んだら息子をよろしく頼む」と申し入れをしている。
秀家は小さい頃から温厚な性格で、利発さも兼ね揃えていたために、秀吉はすっかり気に入ってしまう。
また、当時中国攻めをしていたこともあって、地理的にも岡山は重要な場所であったために秀家の家督継承に尽力したのだ。
わずか10歳であったために叔父・宇喜多忠家が秀家の代理として軍を率い、秀吉軍と共に毛利軍と戦うことになる。
秀家の補佐には重臣の戸川秀安・長船貞親・岡利勝がつくことになる。
彼ら3人は宇喜多三老と呼ばれ秀家を助けるのだ。
宇喜多軍は秀吉軍と共に備中高松城の水攻めに協力し、秀吉軍の傘下として中国地方を転戦していた。
戦国の貴公子
天正10年(1582年)本能寺の変で信長が死去すると秀吉は毛利輝元と和睦をする。
秀家はこの和睦によって所領安堵となり、備中東部から美作・備前を有する57万4,000石の大大名となり、毛利家の監視と抑えの役を担う。
秀吉は中国大返しをして山崎の合戦で明智光秀を滅ぼし主君の仇を取る。
秀家は元服の際に秀吉の「秀」の字を与えられて秀家と名乗り、秀吉の養女・豪姫(前田利家の娘)を正室に迎える。
これによって外様でありながら秀吉の一門衆としての扱いを受け秀、前田家とのつながりも持つことになる。
その後も秀吉の天下統一を手伝い、紀州征伐、四国攻め、九州平定、小田原征伐に参陣して数々の武功を挙げる。
文禄の役では大将として1万の大軍を率いて朝鮮に渡り、普州城攻略を果たすという武功を挙げて文禄3年(1594年)には従三位・中納言に叙任される。
慶長の役でも朝鮮に渡って武功を挙げ、慶長3年(1598年)日本に帰国するとその功によって秀吉から「豊臣五大老」に任じられた。
この時、秀家は27歳であった、他の4人は徳川家康(57歳)前田利家(61歳)毛利輝元(46歳)上杉景勝(44歳)である。
16歳にして従三位、21歳にして朝鮮出兵の大将、27歳にして五大老と異例のスピード出世をした秀家のことを、周りは「戦国の貴公子」と呼んだ。
しかし、秀吉は病に侵され、五大老に息子・秀頼を託し慶長3年(1598年)8月18日に亡くなる。
宇喜多騒動
秀家は27歳にして五大老の仲間入りを果たした。
しかし、家康や利家などの老練な歴戦の強者に比べ、秀吉の後ろ盾ということで就任した秀家には発言権は無かったと考えられる。
朝鮮出兵から帰国した秀家は猿楽(能)や鷹狩りなどに興じて、お金を湯水のように使ってそのストレスを発散していた。
小さい頃から華美なものを好み、秀吉からお坊ちゃんのように欲しいものを与えられていた秀家の贅沢はかなりのものであった。
この秀家の贅沢や岡山城の築城、2回に渡る朝鮮出兵などで宇喜多家は財政難に苦しむことになる。
秀家は「必要な金は民衆から取れ」と過酷な検地や家臣の領地を削減し寺社領の没収などを行った。
また、キリスト教の布教を強引に推し進めたために、家臣たちは秀家の政治に賛成する官僚派と反対する武断派に分かれて対立してしまう。
秀家は豪姫の輿入れの時に前田家から来た中村次郎兵衛を重用していた。
秀家は自分に反対する武断派の戸川達安を解任し、官僚派の長船貞親をその職につける。
貞親は次郎兵衛と組んで国政を思いのままにして強硬策を断行してしまう。
これに怒った武断派が貞親の暗殺を計画するが、翌年たまたま貞親は病死してしまう。
そして、重臣の戸川達安や岡利勝らが次郎兵衛の成敗を大阪にいた秀家に迫った。
秀家はこの要求を拒否して次郎兵衛を加賀に逃がし、武断派の家老を成敗するために兵を差し向ける。
武断派の家老たちは秀家に反目していた宇喜多詮家の邸宅に立て籠り、両者は一触即発の状態となった。
それを見かねた徳川家康と大谷吉継が仲介に入ったおかげで争いは回避されたが、武断派の家老たちは国に帰ることが出来ず、家康ら諸国の大名に預けられることになる。
これによって、秀家は父から仕えていた有力な家老たちを失うことになり、宇喜多家には家老を任せられる器量を持った家臣はいなくなってしまった。
そこで秀家は浦上宗景の家老だった、明石掃部介盛重(明石全登)を登用することになる。
宇喜多騒動は宇喜多家の軍事的・政治的な衰退を引き起こしてしまうこととなった。
関ヶ原の戦い
秀吉の没後、家康は天下取りの動きを加速して、石田三成との対立が深まる。
慶長5年(1600年)家康が会津征伐に向かうと、石田三成と毛利輝元は家康打倒のために挙兵した。
秀家は西軍の副大将として石田三成・大谷吉継らと共に、西軍の主力として1万7,000の兵を率いて出陣する。
伏見城攻めでは総大将として参加し、関ヶ原の戦いとなった。
しかし、宇喜多軍には明石以外に兵を指揮できる歴戦の勇士がおらず、福島正則軍の猛攻に苦しむ。
宇喜多軍は福島軍の猛攻をなんとかしのいでいたが、同じ秀吉一門衆の小早川秀秋が裏切りによって西軍は総崩れとなり、宇喜多軍は壊滅。
秀家はあまりの怒りに「松尾山(小早川の陣)に乗り込み金吾(小早川秀秋)を叩き斬ってやる」と乗り込もうとするが、明石に止められ、少ない家臣と関ヶ原から逃亡する。
八丈島へ流刑
宇喜多家は家康の命で改易となり、家康は秀家の探索を家臣に申し渡した。
秀家は関ヶ原から逃げて伊吹山の山中に身を隠し、野宿などをして農家の牛子屋に匿われていた。
しかも、その間には一杯の朝食のために宇喜多家の家宝「鳥飼国次の名刀」を与えるなど困窮する。
逃亡するにもお金がない秀家は家臣を大坂の屋敷に向かわせ、豪姫から黄金25枚を貰い救出を待った。
しかし、家康の追手が厳しく救出の者が来たのはそれから2か月後であった。
しかし救出は困難が予想されたために「秀家は死んだ」と嘘をついて追手を緩めようと画策する。
家臣が自首して「主君秀家は関ヶ原の戦いの後、自害した」と言ったという。
「ならば証拠を」と尋ねられると「宇喜多家の家宝・鳥飼国次の名刀は伊吹山の農家に預けている」と答えた。
探索をすると本当に農家に名刀があったため、家康の追手は無くなり、半年ぶりに秀家は農家の馬小屋から逃げ出すことが出来た。
堺の実母、円融院の邸宅で1年2か月隠れるが、邸宅の周りに家康の忍者らしき者がいたため、薩摩の島津家を頼って船で島津領に入る。
その後、島津家の家臣の邸宅で約3年間隠れていたが、家康の忍者に嗅ぎつかれてしまい島津家も家康に臣従していために、島津家久は秀家に自首をさせて家康に死罪だけは許されるように頼んだ。
この時、豪姫の兄・前田利長も秀家の助命の嘆願をしたとされる。
慶長11年(1606年)秀家は2人の息子と主従の者11人と共に、八丈島に流刑となった。
当時の八丈島は絶海の孤島であり、秀家は苦難の生活を送るもなんと50年も生きて明暦元年(1655年)11月に84歳で亡くなった。
関ヶ原の戦いに参戦したどの大名よりも、長生きをしていたことになる。
おわりに
わずか10歳にして家督を継ぎ、天下人に我が子同然のように可愛がられ華美を好み贅沢をして「お坊ちゃん大名」と揶揄された宇喜多秀家。
自分の贅沢が招いた財政難で、領民に重税をかけたことに家臣が反発してお家騒動となり、関ヶ原の戦いでは敗北。
57万4,000石の大大名が山の中や農家の馬小屋・堺・薩摩と逃げ回り、八丈島に流刑されて最期を迎える、まさに「驕れる者久しからず」の人生だったとも言える。
この記事へのコメントはありません。