金地院崇伝(以心崇伝)とは
金地院崇伝(こんちいん すうでん)は徳川家康の政治的ブレーンを務めた僧侶で、その絶大な権力によって「黒衣の宰相」とも称された人物である。
家康の天下取りの総仕上げ「大坂の陣」のきっかけとなる、日本史史上最大のいいがかり「方広寺鐘銘事件」を考えたのは通説では崇伝とされる。
そして家康の死後に崇伝は、もう一人の「黒衣の宰相」天海と激突する。
徳川幕府の根幹となる武家諸法度・禁中並公家諸法度・寺院諸法度の制定にも関わった黒衣の宰相・金地院崇伝について迫る。
優秀な高僧
金地院崇伝(こんちいん すうでん)は永禄12年(1569年)室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕える幕臣・一色秀勝の次男として京都で生まれる。
京都の名門一色氏の出身で足利将軍家の側近として将来が約束された身であったが、織田信長が15代将軍・足利義昭を追放して室町幕府が滅亡してしまう。
そして4歳の時に、臨済宗の南禅寺(京都)にて出家して玄圃霊三の弟子となった。
字は「以心(いしん)」で法名を「崇伝(すうでん)」としたが、南禅寺の金地院(こんちいん)に住んだために通称として金地院崇伝と呼ばれた。
文禄2年(1593年)24歳の時、京都に身を置いたまま、10月には摂津の復厳寺の住職となり、11月には相模の禅興寺の住職となった。
慶長10年(1605年)2月、37歳で鎌倉五山第一位の建長寺の住職となり、3月に臨済宗五山派の最高位・南禅寺270世住職となって後陽成天皇から紫衣(しえ)を賜っている。
37歳の若さでこの地位についたことから、崇伝は素晴らしく優秀な僧と周りからも認められ、日本でも有数の高僧となった。
家康のブレーン
豊臣秀吉と徳川家康の政治的ブレーン(顧問的役割)を務めていた相国寺の西笑承兌(さいしょうじょうたい)が、病気で余命わずかとなる。
すると、西笑承兌はその後継として南禅寺の崇伝を家康に推薦した。
慶長13年(1608年)家康の駿府城に招かれた崇伝は徳川幕府の政治顧問を受諾して、幕政に参画し閑室元佶と共に主に外交を担当した。
駿府城内には住居と寺院を兼ねた金地院を建ててもらっている。
閑室元佶の死後は明や朝鮮、東南アジアとの貿易や外交文書の起草、朱印状の事務取扱などを一手に引き受けた。
また、寺社や宗教関係も担当し、全国の寺社を総括する仕事も任されている。
キリスト教の禁止や寺院諸法度・武家諸法度・禁中並武家諸法度の制定に関わる(起草した)など徳川幕府の政治的・外交的ブレーンとなった。
方広寺鐘銘事件
家康は将軍を息子の秀忠に譲り、豊臣家(淀殿・豊臣秀頼)との関係を悪化させた。
高齢になった家康は豊臣家(特に秀頼)の存在が徳川の支配に邪魔だと考え、豊臣家との戦いの口実を崇伝に相談した。
慶長19年(1614年)崇伝は、豊臣家が再建していた京都の方広寺の大仏殿がもうすぐ完成するという情報を耳にした。
そして釣鐘の文字に注目するようにと進言する。
「大御所様(家康のこと)、この鐘の文字に注目してください、『国家安康』には大御所様の名を二つに切り裂き呪う意味がある」と言った。
更に「『君臣豊楽』からは豊臣だけが楽しむとの解釈が可能だ」と説いたという。
家康はこの機を見逃さず、さっそく豊臣家に対して「これは如何に」と難癖をつける。
家康が「狸親父」と揶揄される日本史史上最大の言いがかり「方広寺鐘銘事件」である。
豊臣家の重臣・片桐且元が駿府に出向き家康に申し開きをしようとするも、家康はなかなか会わずに徳川・豊臣両家の親和を示す策を出せと要求した。
且元は「秀頼の江戸への参勤」「淀殿を江戸に人質」「国替えをして大坂城から退去」という私案を提案。
しかしこの案に大坂城の淀殿は激怒し、且元の暗殺を企てるとそれを察した且元は大坂城から逃亡したという。
家康は「且元は豊臣の家臣であるが、家康の家臣でもある、秀頼が勝手に且元の殺害を企てた」と怒り、諸国の大名に対して大坂への出兵を命じた。
これによって大坂の陣が起こり、翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。名実共に家康と徳川家の天下取りの総仕上げは完成する。
きっかけは「国家安康」と「君臣豊楽」の文字であった。
ただし近年の研究によると、崇伝は釈明に訪れた且元に、鐘銘問題の諮問ではなく浪人衆を集めた真意を問いただしただけで鐘銘事件は知らなかったという説もある(崇伝自身が記した日記「本光国師日記」では、家康からこの問題を問われ、初めてこの事件を知ったとされる)
天海との激突
家康にはもう一人「黒衣の宰相」と呼ばれる僧のブレーンがいた。
その名は「南光坊天海(なんこうぼうてんかい」である。
元和2年(1618年)家康は体調を崩して崇伝と天海を呼び、遺言を伝えて75歳の生涯を終えた。
駿府城で死んだ家康の遺骸は遺言通り久能山に埋葬されるが、その時に家康を神として祀る際に「家康の神号」で崇伝と天海の間で意見の対立が起きた。
崇伝は日本独自の神々を尊重する吉田神道に従い、最高の神号である「明神」を主張した。
対する天海は「権現」を主張。天海が立ち上げた独自の教義「山王一実神道」に基づくものであり、しかも家康から生前に「権現にせよ」と遺言があったと主張したのである。
崇伝・天海共に一歩も引かず、重臣や将軍・秀忠も困惑するが、実は豊臣秀吉が「豊国大明神」となっていたことが分かり、秀吉と同じ末路になるのを避けて、天海の「権現」が神号となった。
実は天海は老中筆頭の土井利勝と結託していたという。天海は家康の葬儀の主導権を握り、僧侶としての権威を強めた。
紫衣事件
元和4年(1618年)崇伝は将軍・秀忠から、江戸城北の丸に約2,000坪の屋敷を拝領して金地院を建立する。
元和5年(1619年)崇伝は僧侶の人事を統括する「僧録」に就任。
この頃の崇伝は、京都の南禅寺の金地院と江戸城の金地院を往復しながら政務を執り、南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力している。
寛永4年(1627年)崇伝は、将軍よりも権威のある天皇を幕府の統制下に置くために「禁中並公家諸法度」を起草した。
この背景には朝廷による「紫衣(しえ)」の乱発があった。
紫衣とは、お寺の中でも高僧だけが朝廷から賜る権威のある紫の法衣や袈裟のことであり、この頃、朝廷はお金欲しさにやたらと紫衣を与えるようになっていた。
崇伝も37歳の時に実力で紫衣を賜っていたためにこの事態を許すことが出来ず、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁止するという強硬策(禁中並公家諸法度)を実行したのだ。
幕府の強硬策に、朝廷はこれまでに授与した紫衣着用の勅許の無効に強く反対。
朝廷を支持した大徳寺の住職・沢庵や妙心寺の東源慧等ら、大寺の高僧も幕府に抗弁書を提出した。
崇伝は抗弁書を提出した沢庵ら高僧に対して厳罰(島流し)を主張したが、天海や柳生宗矩が島流しはさすがに重罪すぎると反対したという。
沢庵らは遠方に流罪となったが、これに怒った後水尾天皇が幕府に何の相談もなく譲位を決断してしまい、幕府と朝廷の関係は悪化してしまう。(紫衣事件)
征夷大将軍の就任は朝廷からの要請で任命されていた為、形式的な権威は朝廷が上であった。
しかし、この紫衣事件で実質的権威は幕府が握っていることが明らかとなり、幕府は独裁を強めることになった。
寛永10年(1633年)1月20日、崇伝は江戸城内の金地院で亡くなる、享年65歳であった。
崇伝の死後、幕府は崇伝が一人で担っていた仕事を分割し、寺社関係には寺社奉行を置き、外交関係は老中と長崎奉行が担当し、文教政策は林家(りんけ)が継いだ。
おわりに
徳川家康の死後、天海との神号問題に敗れてその地位を奪われたとも評されたが、元々政治的問題に介入しなかった天海とは違い、金地院崇伝は常に幕藩体制の確立に尽力していた。
金地院崇伝は僧としてではなく「黒衣の宰相」として天皇の権威を真っ向から否定する大問題(紫衣事件)に老中たちと共に当たり、将軍と天皇の地位の逆転という幕府の権威強化を成し遂げて、以後300年以上続く徳川幕府の礎を作った人物であった。
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