金森宗和(重近)とは
金森宗和(かなもりそうわ)は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えて戦国時代を生き抜いた武将・金森長近(かなもりながちか)の孫である。
大名家の嫡男として育った環境にありながら、大坂冬の陣の前に徳川方につく父・可重を批判し、出陣当日に廃嫡されてしまい、母と共に京都に隠棲する。
茶の湯に秀でたことで公家との交友を深め、天下の茶人・古田織部や小堀遠州の作風を取り入れながらも、独自の優美な茶風「姫宗和」を確立した。今回は異風の武家茶人・金森宗和について解説する。
金森宗和の出自
金森宗和は天正12年(1584年)飛騨高山藩主・金森可重(かなもりよししげ)の長男として生まれる。
諱は重近(しげちか)、後に号して「宗和(そうわ)」とする。宗和の名が有名なため、ここでは「宗和」と記させていただく。
母は美濃八幡初代藩主・遠藤慶隆の娘・室町殿。弟には金森重頼・金森重勝・酒井重澄らがいる。
父・金森可重は金森長近の養子となり、豊臣秀吉に仕えて九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵に参陣、秀吉没後は徳川家康のもとで関ヶ原の戦いで武功を挙げて飛騨高山3万8,000石の藩主となった。
祖父・金森長近は織田信長の「赤母衣衆(あかほろしゅう):武勇に秀でた側近部隊)」として仕え、美濃の斎藤義龍が放った暗殺の刺客たちを諌めて、信長暗殺を阻止した勇猛な人物だった。
長近は、信長没後は豊臣秀吉に仕えて天下統一を助け、秀吉没後は徳川家康に仕え、時流を呼んで戦国時代の荒波を乗り越えた武将であった。
祖父の長近と父・可重は共に千利休・古田織部という天下一の茶人の門人でもあり、二人とも茶の湯の才能があり教養人であったという。
宗和は、幼い時から茶の湯を学ぶ絶好の環境にあった。
千利休の息子・千道安と古田織部から学んだという説や、千道安から習った父・可重から学んだという説もあるが、自ら「道安流」と名乗り茶の湯の才能に溢れ、造園や茶室作りなどにも長けた人物であった。
廃嫡
宗和は金森家の三代目を継ぐ身であったが、慶長19年(1614年)大坂冬の陣への出陣当日に、父・可重から廃嫡(勘当)されてしまう。
この理由については諸説がある。
「宗和が反徳川で大坂の陣への出陣を拒否したため」
「宗和の性格が柔弱で藩主に不適格と判断されたため」
「弟・重頼(次男)に金森家を継がせるため」
「茶の湯の才能がある宗和を武士の立場から出して金森家の茶道を残すため」
「宗和の母・室町殿が離縁されていて後妻との間に確執があったため」
「徳川家のスパイ説」
「スパイとして徳川家を探った説」
「大坂方の武将である後藤又兵衛(後藤基次)と宗和が親しく仲が良かったため」
など様々な説がある。
しかし、確かな文献が残っておらず、一般的には「宗和が反徳川を訴えた」「徳川方につく父を批判した」とされている。
父・可重は四男、五男と共に大坂の陣に出陣して、首級152または208とも言われる大きな武功を挙げている。
姫宗和
廃嫡された宗和は母・室町殿と共に京都へ移り、当初は茶師・宮林家に滞在した。
この頃、茶の木を刻んで作ったのが「茶の木人形」の始まりだとされている。
その後、宗和は大徳寺金龍院に滞在、大徳寺で剃髪して「宗和(そうわ)」と号し茶の湯の道を極めていく。
宗和の茶道は千道安や古田織部の茶道に加え、独自の武家茶人らしく厳粛で気品も持ち合わせ、臨機応変で柔らかく優美な茶風は宮中の公家などに評判が良かった。
雅な道具を好んだことから「姫宗和」と呼ばれて京都の公家たちに愛された。
その系譜は「茶道宗和流」として今日まで続いている。
宗和は著名な陶工・野々村仁清を見いだし、大工・高橋喜左衛門と塗師・成田三右衛門らに命じて「飛騨春慶塗」を生み出している。
金森宗和の逸話
宗和には茶人としての逸話が幾つか残っているので、ここで紹介する。
後陽成天皇の第九皇子・一条昭良(恵観)が宗和を召して、台子(だいす:茶道具を置くための棚)の点前(たてまえ:茶を点てる一連の所作)を所望すると、宗和は台子に向かって柄杓(ひしゃく)を取り点前を始めようとしたが、急に立ち上がって次の間に下がった。
しばらくすると宗和は戻ってきたが、柄杓の柄が五分ほど短く切り詰めてあった。これは柄杓の長さが宗和の求める「用・美」と異なったからで、これを観た恵観は宗和を信頼するようになったという。
武芸(槍の名手)で天下に名が知れた伊予国大洲藩主・加藤泰興(かとうおきやす)が、宗和に茶会を依頼した。
加藤泰興は茶の湯にさほど興味がなく心得も無かったが、天下に名高い宗和の茶道を体験して、武芸者から観て何らかの隙があれば指摘してやろうと意気込んで茶会に参加した。
しかし、宗和の点前は一分の隙もなく、茶会から帰った加藤泰興は「宗和は名人である」と賞賛した。それを聞いた宗和の弟子であり公家の茶の湯を体系化した慈胤法親王(じいんほっしんのう)は「そうだろう、そうだろう」と大変嬉しがったという。
後陽成天皇の第四皇子・近衛信尋(鷹山)が宗和を招いて茶会を開き、そこに華道で有名な池坊専好(いけのぼうせんこう)がたまたま挨拶に訪れた。
鷹山は丁度良い時に来たと、池坊専光に花を生けさせる。
そこに宗和が入ってきて生けた花を見て「専好は大坂に行っていると聞いたが、いつ帰って来たのだろう」と、一見しただけで言い当てた。
鷹山が「何故専好の花だと分かったのか?」と尋ねると「御前(鷹山)の生け方とは違いました」と答えたという。
茶道宗和流
こうして名声を高めた宗和は、加賀藩主・前田利常(まえだとしつね)から高禄をもって召し抱えるとの申し出を受けたが、これを固辞して代わりに宗和の長男・七之助(金森方氏)が加賀前田家に召し抱えられた。
これより代々、宗和の子孫は加賀藩に仕え、2,000石を領して「茶道宗和流」を継承し今日に至っている。
宗和は晩年になっても積極的に茶会を催して、明暦2年(1657年)12月16日に73歳で死去した。
おわりに
金森宗和は、飛騨高山藩主の嫡男として生まれながら廃嫡されてしまうが、持ち前の茶の湯の才能を生かし、京都にて後水尾天王らの公家サロンに交わり、武家茶人として古田織部・小堀遠州の影響を受けた独自の茶風を編み出し、宮中の茶道に大きな影響を与えた。
雅な道具を好んだことから「姫宗和」と呼ばれたが、立場に応じて宮中の有識故実にもかなう茶の湯を展開し「異風の茶人」と称され、茶道宗和流は今も継承されている。
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