はじめに
戦国三英傑とは、数多くの武将たちが争いを続け領土を取り合った戦国時代に、天下統一を目指した3人の戦国武将「織田信長(おだのぶなが)」「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」「徳川家康(とくがわいえやす)」のことである。
彼ら三英傑は現在の愛知県にあたる尾張国・三河国の出身で、名古屋市に縁があることから毎年秋に「名古屋まつり」と称して三英傑や鎧武者、従者などに扮して豪華絢爛な「郷土英傑行列」を行っている。
今回は戦国三英傑の特徴(性格)について解説する。
三英傑とは
江戸時代までは尾張と三河を一体とみる考え方はなく、江戸時代は「神君」だった家康と他の2人を一緒に語るのは困難であった。
ただ、嘉永5年(1852年)小田切春江著「尾張英傑画伝」では、三英傑に「源頼朝」と「足利尊氏」を加えて「草創五君」とし、信長・秀吉及びその配下の武将たちを含めて「日本の英雄」の句が尾張から出たとされ、三英傑のイメージの一部が生まれた。
三英傑を最初に取り上げた書物は明治12年(1879年)成立の水谷民彦「三傑年譜」全30巻とみられている。
その後、在京愛知県出身者によって編集された「愛知学芸雑誌」では、愛知の地理的環境が幾多の英雄を生み出し、その代表格が「三英傑」であるとされた。
江戸時代は三英傑という呼称はなかったが、天下人の座を受け継いだ3人を一まとめにするする考え方は存在した。
天保~嘉永期に「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」という狂歌が流布され、歌川芳虎によって錦絵も描かれた。(ただ、この絵には明智光秀も含まれている)
この他に最も有名な川柳として
信長は「なかぬなら殺してしまへ時鳥(ホトトギス)」
秀吉は「鳴かずともなかして見せふ杜鵑(ホトトギス)」
家康は「なかぬなら鳴くまで待てよ城公(ホトトギス)」
と性格が分かりやすく表現されたものがあるが、これは作者が不明で、江戸時代になってからの想像による創作である。
愛知は「東海道」「中山道」「北国街道」が交差する地点で、東西の文化や最新の情報がいち早く入手出来た。
また、京に上洛する際の通り道だったというのも大きく、同じ時代に天下統一路線を推し進めたことも3人の共通点である。
信長の性格
信長は幼少の頃、印陳打(石を投げあって勝負を争う遊び)を好み、活躍した子供たちに母から貰った永楽銭などの品々を一銭残らず分け与えていた。
周りの者たちは「この子は将来名将になるであろう」と感心したという。
幼い頃からまげも結わず派手な紐で髪を結び、腰には縄で瓢箪(ひょうたん)や草鞋(わらじ)をくくり付け、奇抜な服装で町に出て柿やウリを食べ歩いていた。
「傾奇者」「大うつけ」と言われていたが、その裏では馬術・弓・鉄砲・兵法の稽古・泳ぎの鍛錬・鷹狩も好んでいた。
南蛮渡来の新しい物を好み、相手の地位に関係なく話しかける一面も持ち合わせていた。
父・信秀の葬儀で抹香をわしづかみにして仏前に投げつけたエピソードが有名だが、この理由としては「家督後継者として家臣らにアピールした」「家中の不忠の家臣をあぶり出すために大うつけを演じた」など諸説ある。
列席者の中にいた筑紫の僧は「この人こそ国郡を持つべき人だ」と言って賞賛したという。
信長はいわゆるトップダウン型で家臣の意見にほとんど耳を貸さず、自分に反対する者を容赦なく罰したとされ、残虐で非道というのが一般的な信長像であるが、常人とは異なる感性の持ち主で、宣教師のルイス・フロイスは「稀に見る賢明で優秀な人物」と高く評価している。
秀吉の性格
秀吉は好奇心が強く、人を上手く味方につけることが出来る性格、いわゆる「人たらし」であった。
信長に仕え始めたばかり、ある雪降る夜の日、信長が局から草履を履くと暖かくなっていた。
それは秀吉が草履を背中に入れて(懐に入れていたという説も)暖めておいたからで、信長はその機転の良さに関心して秀吉を草履取頭にしたというエピソードが最も有名である。
史実・創作を含めて秀吉には逸話が多く、人に気に入られる素質があった。
一般的に秀吉は小さなことにこだわらない度量の広い人物として知られているが、実際は狭量で世間の目を気にする部分もあった。
そのために自身の評判を上げるために盛大な茶会(北野大茶会湯)を開催し、華美な軍装を好んだりした。
自分を非難する落書きを見つけた際には、鼻や耳を切り落として磔(はりつけ)にするなど残虐な一面もあったが、心温まるエピソードもたくさん残している。
ルイス・フロイスは信長とは対象的に「悪知恵の働く抜け目のない策略家」と辛口に評している。
家康の性格
家康は忍耐強い性格の持ち主であったと言われている。
まさに戦国時代最高の成功者と言える家康だが、天下を取ったのは60歳頃。その後15年ほどでこの世を去った。
幼少期の大半を人質として尾張(織田家)と駿府(今川家)で過ごした家康は、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた隙を見事について人質生活から抜け出し大名へと独立した。
その後も辛抱強く実力を蓄え、最終的には武士の最高峰である「征夷大将軍」にまで上り詰めた。
倹約家で麦飯や焼き味噌など質素な物を好んで食べ、家臣にも暴飲暴食を避けるように指示。
薬の専門書を愛読・研究して自分で調合し薬草園まで作るほどの健康オタクでもあった。そんな地道な生活が長寿の元となり、天下を取ることが出来た。
秀吉は跡取りがなかなか出来ず、歳を取ってからやっと秀頼が生まれたが、豊家康は子供をたくさん作った。
後継者には三男・秀忠を選び、九男・義直(尾張)、十男・頼宣(紀州)、十一男・頼房(水戸)を御三家とした。
徳川将軍家に男子なき時は、御三家の中から次の将軍を出すシステムを確立させ、徳川幕府十五代・260年以上の安定政権の礎を作った。
家康は3人の中では最も忍耐強く、極めて現実的な先を見通す力に長けていたと言えよう。
おわりに
冬になると雪のために戦が出来ない上杉謙信と上杉景勝、生まれた時代が少しだけ遅かった伊達政宗、上洛を目指しているうちに亡くなってしまった武田信玄など、三英傑以外にも才能に恵まれた有力武将たちは多くいたが、運命のいたずらか天下人となれなかった。
中国には古代から天命という考えがあるが、この3人は正に天に選ばれた人物だったといえよう。
いいとおむいます。