徳川家康の逸話
戦国三英傑(せんごくさんえいけつ)とは、天下人へあと一歩のところまで迫った「織田信長」、最初の天下人となった「豊臣秀吉」、秀吉没後に天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、江戸に幕府を開いたもう1人の天下人「徳川家康」の3人である。
三英傑の三人は共に尾張・三河(現在の愛知県)出身という共通点があるが、それぞれタイプは違い様々なエピソードがある。
今回は最終的に天下を統一した徳川家康の逸話を、有名な脱糞説をメインにいくつか紹介する。
石合戦の逸話
家康が今川家の人質で竹千代と名乗っていた9才の頃。家来たちと共に出かけた際に、子供たちが川をはさんで石合戦をしているのを見た。当時、石合戦は実戦の模擬的な遊びとして子供たちの間でよく行われており、信長も幼少期は好んでいたという(※徳川家光時代に禁止令が出た)
子供たちは海組山組と分かれており、海組は50人ほどで山組は100人ほどだった。家来の1人は「竹千代様、人数の多い山組が勝ちますよ」と竹千代に言ったが、竹千代は「人数が半分の海組が勝つ」と言い放った。家来が理由を尋ねると「山組の方は人数が多いので安心して半分が遊んでしまっているし、残りの半分も士気が低い。人数の少ない海組の方はみんな真剣だ」と答えた。
そして石合戦が始まると本当に人数の少ない海組が快勝してしまった。家来たちは家康の物事を見定める力に感心したという。
厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)
織田信長vs今川義元の桶狭間の戦いの時、家康(当時は松平元康)は今川側で出陣し大高城への兵糧補給実行部隊だった。その後、家康は大高城を守っていたが、今川義元が信長に討たれたことを知ると退却し、松平家の菩提寺であった大樹寺に身を寄せた。
その後、大樹寺は織田軍に取り囲まれてしまい家康は切腹を覚悟した。しかし寺の住職に説き伏せられ切腹を思いとどまり、僧兵たちと奮闘してどうにか窮地を脱することができた。
この時に住職から説かれのが
厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)
(この世は誰もが欲望のために動いており穢れている。この穢れた現世から離れて極楽浄土に往生すること願い求れば、仏の加護を得て事を成す)
という浄土教の言葉であり、それ以降、家康はこの言葉を馬印として用いたという。
真に恐ろしいのは臆病者
家康・織田信雄連合軍VS秀吉軍の小牧・長久手の戦いにおいて、家康は「この世で真に恐ろしいのは勇者ではなく臆病者だ」と言ったという。
この戦いは信長の次男・信雄が秀吉と仲たがいをして家康に救いを求めて始まった戦いであったが、最終的には信雄が秀吉に攻め込まれて単独で講和してしまった。
家康の言う臆病者とは信雄のことであった。
結果、家康は秀吉を攻める理由がなくなって停戦となった。
天下の宝は何か?
ある時、秀吉が「天下の宝」の大半を集めたと家康に自慢した。
家康は秀吉から「宝は何か?」と問われると、間髪入れずに「私のためなら命を投げ出してくれる家臣が500人はおります。その家臣たちが何よりの私の宝物です」と答えた。
秀吉は赤面して返答もしなかったという。
家康は脱糞していなかった?
武田信玄との三方ヶ原の戦いの時、家康は信玄の罠にまんまとはまって1,000人以上の死傷者を出し、命からがら浜松城に逃げ帰った。
その時、家康は恐怖のあまり「脱糞」したという逸話は有名である。家臣の大久保忠世に馬の鞍壺に糞がついていることを指摘され、「これは焼き味噌じゃ!」と言い訳したというエピソードである。
この元ネタは『三河後風土記』という江戸時代初期~中期あたりに書かれたとされる徳川氏創業期に関する歴史書であるが偽書説もあり、後に11代将軍・徳川家斉により改正令が出され、儒学者・成島司直(なるしまもとなお)によって『改正三河後風土記』が作られている。
『改正三河後風土記』によると、この家康の脱糞事件については
此日御出馬なければ逃給ふ事あるべきにあらず 是等皆妄説なる故に削り去りぬ
(この日はそもそも家康様は出馬していないので、逃げるという事もあるはずがない。これらは妄言であるので削除する)
と、修正されている。
元ネタとなる『三河後風土記』は作者不明であるが、改正した成島司直は『三河後風土記』の作者は沢田源内という人物だとしている。そしてこの沢田源内という著述家は、著作の多くが偽書とされており確かに少し怪しい人物である。
『改正三河後風土記』が正しいのであれば、家康の脱糞エピソードは作り話ということになる。
しかし『改正三河後風土記』も、校正した成島司直はそもそも幕府の儒官であり徳川を賛美する傾向が強く、不利となる異説は全て虚妄の説としていることが問題点として指摘されている。
確かにもし自分が幕府お抱えの儒学者・成島司直だったとしたら、江戸幕府開祖の家康公の脱糞エピソードをそのまま修正せずに、11代将軍・徳川家斉に提出できるだろうか?
私も仮に自分が成島元直の立場であったら、つい幕府に忖度して脱糞エピソードをうやむやに修正してしまいそうである。とはいえ元の『三河後風土記』も少し怪しげであるし、脱糞エピソードは他の史料には一切記されておらず(記しづらい内容ではある)、本当にあったかどうかは結局当時の人々の言い伝えを拠り所にするしかないということになる。
『三河後風土記』の作者が仮に沢田源内であり、彼が偽書を多く著していたとしても内容の全てが嘘というわけではないだろうし、家康の脱糞エピソードは当時の人々の間で口伝として広まっていた可能性はある。『三河後風土記』の作者はそれをそのまま著したのではなかろうか。
昔の伝承や言い伝えというのは意外と真実をそのまま伝えている例も多く、家康の脱糞話は公式な史料こそないものの当時の人々の間では有名な話だったのかもしれない。
真実は歴史の闇の中だが、脱糞エピソードは家康の魅力を際立たせるものであると思うので、筆者的には
「家康は本当に敵から逃げる際に脱糞していて(三方ヶ原の戦いではないとしても)それが口伝として人々に広まりそれを著した者がいて、成島元直が幕府に忖度してそれを修正した」
と考えたい。
おわりに
これ以外にも戦国三英傑の逸話はたくさんあるが、特徴ある逸話を幾つか紹介してみた。
信長は家臣の言うことにはあまり耳をかさないが、常識にとらわれない優れた理性で新しい世界を生み出し、天下統一まであと一歩まで迫った。
秀吉は「人たらし」と「機転の良さ」と低い身分出身の強いコンプレックスをバネに、一気に天下を取った。
家康は苦労が続き大きな危機も3度あったが、家臣たちの意見を良く聞き窮地を乗り越え、粘りに粘って天下人となった。
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