豊臣秀長とは
豊臣秀吉は、たった一代で農民から関白・太閤へと、群雄割拠の戦国時代を勝ち上がり天下人となった。
その秀吉の弟であり、天下人秀吉の右腕として「影の太閤」とまで呼ばれた人物が豊臣秀長(とよとみひでなが)である。
天才軍師・竹中半兵衛と黒田官兵衛と共に戦に明け暮れながら「公儀のことは宰相(秀長)に」と言われたほど政治手腕に長けた人物でもあった。
秀長は兄・秀吉の天下統一を見届けた直後に亡くなるが、その死は豊臣家終焉の始まりだとも言われている。
もし「秀長が長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった」とも言われた縁の下の力持ち、影の太閤・豊臣秀長の生涯について前編と後編にわたって解説する。
出自と秀吉に仕える前
豊臣秀長は、天文9年(1540年)秀吉の生母・仲と竹阿弥(秀吉の実父ではなく、母・仲の再婚相手)の子として、尾張国愛知郡中村(現在の愛知県名古屋市中村区)の農民の子として生まれた。
幼名は「小竹(こちく)」とされているが、それを確認出来る文書はない。
その後「小一郎(子一郎)」と改称したが、ここでは「秀長」と記させていただく。
兄・秀吉とは異父兄弟であるが、一説には秀吉の父・弥右衛門が実父で同父兄弟という説もある。
しかも兄・秀吉は秀長が幼いころに家を飛び出したため、2人の間にどれほど兄弟の交流があったのかは不明である。
農家の生活に嫌気がさした秀吉とは異なり、小一郎少年(秀長)はまじめに働く青年で、稲の成長を日々気にする生活を送っていた。
性格は穏やかで、両親や妹、村人たちに愛されて育ったようである。
しかし転機が突然訪れる。
10年以上も昔に家出をした兄・秀吉が織田信長の下士となって村に帰って来たのである。
秀吉は、自分の出世話や良家の娘との縁談話があることを母に話して言いくるめ、秀長を自分の元にしばらく預けることを許可させた。
秀吉と共に城下に向かう道中、秀吉から家来になって欲しいと頼まれた秀長(小一郎)は、1度は断ったが兄の熱弁に引き込まれて家来になることを決意する。
秀吉の家来となった彼は「木下小一郎長秀」と改名した。
秀吉に仕えてから
農民から織田家の家来となり一見出世して幸運なようにも見える秀長だが、実際に待ち受けていた仕事はとても大変なものだった。
組頭となっていた兄の秀吉は、毎日朝から晩まで信長のもとに仕えていたため、組頭の仕事のほとんどは事実上秀長の仕事となってしまったのである。
更に仕事はそれだけではなく、信長が美濃の斎藤龍興との合戦を行った際には、信長と共に戦地に行った秀吉の代わりに城の留守居役も務めた。
元々農民の出で、戦闘や戦術に優れていた訳ではない秀長にとって、それは命を縮めるようなものであったに違いない。
天正元年(1573年)浅井氏を滅ぼした功績で秀吉が長浜城主となり羽柴姓を名乗ると、秀長は城代を任せられることになる。
天正2年(1574年)秀吉が越前の一向一揆で手一杯になると、秀吉の代わりに長嶋の一向一揆の討伐に出陣するなど活躍し、天正3年(1575年)に秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。
秀吉が中国攻めの総大将になった際には、山陰道や但馬国平定の指揮を任され、黒田官兵衛と共に秀吉陣営の最重要人物へと成長した。
秀吉と共に中国攻めの数多くの戦に参戦し、兄を支えながら勝利に貢献していくのである。
本能寺の変以降
そんな秀長に2回目の大きな転機が訪れる。天正10年(1582年)6月2日の「本能寺の変」である。
備中高松城を水攻めしていた秀吉と秀長は、捕らえた明智の間者の手紙から「信長死亡」を知るのである。
秀吉は黒田官兵衛らと協議の上、すぐに毛利と和睦し「中国大返し」を成功させ、信長の仇・明智光秀との「山崎の合戦」に勝利した。
これで織田家の宿老の中で秀吉の地位は上がり、その勢いのまま織田家の行く末を決める「清須会議」において、秀吉は亡き織田信忠の遺児・吉法師の心をつかむ。
織田家宿老の筆頭の領土を確保した秀吉は柴田勝家と対立、「賤ケ岳の戦い」に勝利し、勝家を自害に追い込んだ。
秀長は美濃守に任官されると播磨と但馬の国を拝領し姫路城と有子山城を居城とし、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」では織田信雄を監視し、信雄との講和交渉を秀吉の名代としてやり遂げた。
この年に名を「長秀」から「秀長」に改名した。
これは小牧・長久手の戦いで、兄・秀吉が信長の実質的な後継者として地位を揺るぎないものとしたために「秀」の字を上に持ってきたという。
天正13年(1585年)紀州征伐では甥・秀次と共に副将として活躍し、家臣・藤堂高虎の活躍によって紀州を制圧。紀伊・和泉など約64万石余りの所領を与えられる。
同年6月の四国征伐においては、病気で出陣出来ない秀吉の代理として10万を超える軍勢の総大将となった。
しかし、長曾我部氏の激しい抵抗と毛利・宇喜多氏の合同軍のため四国侵攻は苦戦した。秀吉は援軍の申し出をしたがなんと秀長はそれを断り、そのまま長曾我部元親を降伏させた。
この功績で秀長は大和国を加増され、所領は100万石となった。
秀長が治めた紀伊・大和・河内などは、寺社勢力が強いために治めやすい土地ではなかった。しかし秀長は持ち前の内政力で諸問題の解決に努め、数多くの政策を実施した。
その後、秀長は豊臣姓を与えられ従二位大納言の叙任を受け「大和大納言」と称されるようになる。
稲の成長を日々気にする生活を送る青年だった秀長は、秀吉とともに比類なき大出世を遂げたのである。
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