最上義光(もがみ よしあき)は、出羽国(山形・秋田両県)の有力大名であり、伊達政宗の母の兄だった。
彼は、ある事件をきっかけに徳川家康に心酔していった。
今回は、豊臣方だった義光が後に徳川についた理由と、関ヶ原合戦で果たした知られざる役割について解説する。
伊達政宗の伯父・最上義光とは?
最上義光は、大河ドラマ「独眼竜政宗」では、伊達政宗の行く手を何かと阻む悪役として登場した。
最上家は足利氏から分かれ、室町時代は幕府三管領(将軍補佐にして幕政の統率役)斯波氏の分家筋にあたる。
室町時代、羽州探題(幕府から出羽国統括を任された役職)を代々務めた家柄だった。
家柄や血筋を辿れば伊達氏より格上だったが、1514年(永正11年)政宗の曾祖父・伊達稙宗に最上家の跡継ぎ問題に介入される程、勢力を落としていた。
そして天文の乱(1514年~1520年、伊達稙宗と晴宗が親子間で争う)以後、最上家は伊達家介入を排除し、独立大名の道へと進んだのである。
義光時代には近隣地域を平定し、さらに上杉氏や伊達氏らと争う。
義光は180センチ以上の体格を持ち、八人総手で取り組んだ大岩を1人で転がすほど力が強かったという。
豊臣政権下では本領24万石を認められるが、関ケ原合戦時は家康に味方して奥州で軍を進めた。
徳川政権下で義光が統治した山形藩内は「一揆がない」と云われるほど穏やかだったという。
領民を大事にし、年貢以外の税金(労役等)をかけないなど、徳政を敷いたのである。
秀吉から家康へ義光が傾いた事件とは?
最上義光は、豊臣政権では自国領を認められ、政宗のような国替えもなかったが、なぜ家康に信奉していったのか?
それは伊達政宗も疑われた「関白秀次謀反事件」が、原因だった。
関白秀次謀反事件とは、何か?
1593年(文禄2年)、淀殿(秀吉の側室)が秀頼(秀吉の跡継ぎ)を産むと、彼女とその取り巻きが力を付け始める。
秀頼誕生による勢力変化で、秀次(1592年に関白就任・秀吉の甥)は心身不安定になっていた。
そして1595年(文禄4年)秀次は前触れもなく反逆を疑われた。
秀吉からの詰問に対する不味い対応が不利な結果を呼び、高野山入りから自害となる。
そして秀次の妻妾(正室及び側室)及び子らは、三条河原で処刑されることになった。
その秀次の妻妾たちの中に、義光の娘・15才の駒姫もいたのである。(※駒姫は最上屋敷に到着したばかりで、実質的な側室になる前だったと言われている)
なぜ、駒姫は秀次の側室として迎えられたのか?
1591年(天正19年)九戸政実(南部氏の家臣)が、豊臣政権の奥州仕置き(概ね太平洋側東北の領地配分)に不満を抱き、反乱を起こした。
この反乱の討伐軍を率いた家康に同行したのが秀次だったのである。
この時、駒姫の「東国一の美少女」という評判を聞いた秀次は、義光に「側室に差し出すように」と再三要求する。
義光は断ったものの、ついには断り切れず「成長を待ってから」と、延期の約束をするのが精一杯だった。
東国一の美少女の死
1595年、駒姫は秀次との婚姻の為に京に到着したばかりだったが、関白秀次謀反事件で処刑されることが決まった。
義光は必死に助命嘆願に動き、家康に仲介を頼み、秀吉に娘の助命を請うた。
駒姫が出羽国から京都へ到着した頃、秀次は既に高野山にて捕らわれていた。
秀吉の側室・淀殿は、その事情を知り、秀吉に助命を願い出る。
秀吉はその願いを聞き届け、駒姫の処刑中止の早馬を走らせたが、あと一歩のところで間に合わなかったという。
いや、間に合ったが、刑場にいた石田三成(豊臣家家臣・5奉行の1人)が、処刑中止の使者を無視したという説もある。
彼女は34人の妻妾中、11番目という早い順番で刑を執行された。
駒姫の悲劇は、更なる連鎖を呼んだ。
彼女の母・大崎夫人(義光正室)が、娘の死に衝撃を受けて病に倒れたのである。
そして夫である義光が秀次事件関与の疑いで監禁されると、大崎夫人は自害してしまった。
この事件を契機に、義光の中で秀吉への憎しみが膨らんでいったことは容易に想像できる。
翌年の1596年(文禄5年)、慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)が起こる。
畿内の大部分が揺れ、寺社や大仏が倒れ破損した。
義光はこの地震で秀吉を差し置き、家康の護衛に駆け付けたという。
駒姫助命を引き受け、秀次事件疑惑で助力してくれた家康こそ守るべき存在だと位置づけたのであろう。
関ヶ原合戦で、義光が果たした役割とは?
1600年(慶長5年)、家康は上杉景勝(上杉謙信の甥、新潟から福島県会津地方へ国替えで100万石領主)の軍備増強を詰問するが、上杉家は絶縁状で返答した。
同年、家康は上杉家を攻めるために「会津征伐」を開始する。
徳川に味方する東北の武将たちは、続々と義光の領地へ集まってきた。
それは上杉家家老・直江兼続の居城・米沢城に攻め込むためだった。
しかし「会津征伐」の途上、石田三成らが京都・大阪方面で反徳川の兵を挙げたのである。
この知らせを聞いた家康は、味方武将に景勝の動きを封じるように命じて引き返した。
結局、家康不在で集結した東北の武将達は、各々の事情で引き上げ始め、主に最上軍が上杉軍と戦う事態になったのである。
2万以上の圧倒的兵力の上杉軍に対し、最上軍は3分の1以下の兵力で迎え撃った。
直江兼続は、人海戦術で最上軍と伊達軍を降参させ、両軍を従えて家康軍と対決する考えだった。
ところが最上軍は屈せず、数で勝る上杉軍に引けを取らずに善戦した。
こうして兼続の目論みが外れて最上軍に手こずっている間に、関ヶ原の戦いは東軍(家康軍)の勝利に終わったのである。
義光が上杉軍を奥州に釘付けにし、関東に侵入させなかったことで、家康は上杉軍からの背後攻撃を警戒せずに関ヶ原合戦に集中できたのである。
終わりに
歴史に「たら・れば」はない。
しかしながら、もし駒姫の助命が間に合っていたら、義光は命がけで秀吉を支え、豊臣家に尽くしたに違いない。
秀吉、或いは石田三成も時の権力者側だったせいか、人の命と臣従した大名の感情を軽視していたのだろうか。
一方、義光は亡き娘と妻の遺髪を抱えて領国へ帰った悔しさを、決して忘れなかったはずだ。
上杉軍と戦った時、妻子を死に追いやった豊臣側を敵視する気持ちは、人一倍強かったかもしれぬ。
参考図書
「伊達政宗とその武将たち」 飯田勝彦 著
秀次も同情的に語られることが多いけど、権力をかさに側室に要求というのは、人格に問題がないわけでもなかったのかな
義光は亡き娘と妻の遺髪を抱えて国に帰る…さぞ無念で悔しかったでしょうね…。想像を絶します。
2万以上の敵軍に屈せず、3分の1以下の兵力で善戦した話からも、その押し殺してきた激情が垣間見えるようです。
人の想いが歴史を刻むんだなぁ…
こまひめ可哀想