石田三成とは
石田三成とは、一体どういった人間だったのか?
今回は幾つかのエピソードを見て検証してみたい。
石田三成と豊臣秀吉の出会いのエピソードは、非常に有名である。
大原観音寺に伝えられる「三献の茶」(さんこんのちゃ)の逸話は広く知られている。
三成は武士の家系で、子供の頃はお寺に預けられていた。
この頃、長浜城主だった秀吉は、鷹狩の帰りにそのお寺に立ち寄った。
出てきた小姓の三成に、秀吉はお茶を出してくれと頼む。
すると三成は大きめの茶碗にぬるめのお茶を入れて出すのであった。
すぐに飲み干した秀吉はもう1杯頼む。
次に三成は、茶碗半分程に少し熱めのお茶を出してきた。
秀吉はそれを飲み干しもう1杯頼んでみると、出てきたのは小さな茶碗に入った熱いお茶だった。
つまり秀吉が最も飲みやすいように、水分量と熱を調整した気配りだったのである。
この思いやりと気遣いができる三成を秀吉は大層気に入り、三成はその後、秀吉の小姓となり武将としての人生を歩み始めたのである。
石田三成は頭脳明晰だった
それでは三成の戦においての実力はどの程度だったのだろうか?
三成が武術に秀でていたという話は全く聞かないが、戦術面での優秀さを表す逸話はいくつか残っている。
織田信長亡き後の後継者争い。
その山場こそが羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いであった。
この戦いで、地形や気候、敵軍の情報を分析したのが三成だった。
この頃の三成は24才くらいで、秀吉の側近として主に諜報活動や情報収集を行い、勝利に大きく貢献していた。
秀吉の小田原征伐の時に、10万以上の軍勢の兵站(へいたん)の手配をしたのも三成である。
そもそも関ヶ原の戦いでの布陣も、西軍(石田三成)は完璧だったと言われている。
明治時代に日本に赴任したドイツの参謀将校のメッケルは、関ヶ原の戦いの布陣を見た際に「西軍が勝っただろう?」と言った逸話がある。
東軍(徳川家康)が勝ったと聞いても「あり得ない」と納得できないメッケルに、帝国陸軍の児玉源太郎が「裏切者がいたのです」と説明をしてようやく理解してくれたという。
石田三成は実直な性格だった
三成の智将ぶりと実直さを表す逸話は多くある。
三成は、秀吉に気に入られてその後も出世していった。
ある日、秀吉が三成を4万石に加増した後に状況を尋ねたのだった。
「家来は何人増やしたのだ?」
すると三成はこの質問に対して
「1人だけです」
と答えたのである。
驚いた秀吉は、その1人とは誰なのか尋ねると
「島左近です」
またも秀吉は驚いた。
なぜなら島左近は猛将として名をはせており、三成のような小禄の武将に仕えるような器ではなかったのである。
「いったい、いくらで雇ったのだ?」
と質問してきた秀吉に三成はこう答えた。
「2万石です」
そして秀吉は
「主君と家臣が同じ禄高とか聞いたことがないぞ。だがそうでもなければ左近ほどの武将が部下にはなるまい」
と笑いながら納得したという。
なぜ石田三成は嫌われていたのか?
三成は当時「三成(治部少)に過ぎたるものが二つあり」と近江で謳われていた。
三成にはもったいないと言われていた1つがこの島左近であり、もう一つが30代にして城主になった佐和山城である。
「石田三成程度の小禄の武将に佐和山の領地などもったいない」
それが近江地方での三成への評価だった。
だが三成の佐和山での統治は領民からの評判も良く、農民に対して困ったことがあった時は取次役を通さずに「直接三成に直訴をしてもよい」と取り決めをするなど善政であったという。
また、関ヶ原の戦いで敗れた後、三成は財産や私物を抑えられたが、東軍が驚くほど何も持っていなかったという。
それ程実直で他人思いの三成であったが、当時他の武将から慕われていたのかと言えば全く逆であった。
文禄の役、すなわち最初の朝鮮出兵では、三成は総奉行を務めて戦いにも参加した。
明との和平交渉の連絡役もこなしており、それが原因で武断派の福島正則、黒田長政から恨みを買ったとされている。
三成は第二次朝鮮出兵である慶長の役でも、兵站などの後方支援を行うなど裏方として豊臣軍を支えた。しかし蔚山城の戦い(うるさんじょうのたたかい)の後に戦線縮小案を上申した諸大名に対し秀吉が激怒し、彼らは処分を受けることとなったが、その恨みは三成に向けられている。
あまりに実直過ぎる性格故に、主君である秀吉のために憎まれ役を引き受けていたと考えられる。
また、実直すぎるが故に融通がきかないという欠点も見受けられた。
「そんなことまで秀吉に報告しなくても良いのでは?」という形での不満を抱える者が数多くいたのも事実なのである。
三成は頭脳明晰で他人に優しく忠義に厚い人物だったが、戦国の世においては清廉潔白すぎたのかも知れない。
参考文献 : 石田三成伝
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