百地丹波とは
百地丹波(ももちたんば)とは、戦国時代の伊賀国を仕切る土豪であったが、裏では伊賀上忍三家の「服部・藤林」と並ぶ1人で、伊賀忍者を統括した頭領である。天正年間には伊賀国一帯に勢力を広げた。
『伊乱記』によれば織田信長の次男・信雄が伊賀国を攻めた第一次天正伊賀の乱において、百地丹波は鬼瘤越に進軍する信雄の重臣・柘植保重を討ち取って織田信雄軍に勝利したという。
今回は、信長と戦った伊賀忍者の頭領・百地丹波(百地三太夫)について掘り下げていきたい。
出自
百地氏は伊賀国名賀郡喰代(現在の三重県伊賀市)の武士で、同国名張郡から大和国宇陀郡に渡る竜口(現在の三重県名張市と奈良県宇陀市)を治める地頭であった。
百地氏は奈良の東大寺の荘園(黒田荘)の荘官で悪党として活動した大江氏の末裔と言われ、また伊勢国司の北畠氏の末裔だとも言われている。
表向きは武士(地頭)土豪であったが、裏では百地家は伊賀忍者上忍三家「服部・藤林・百地」の1人で、百地丹波は伊賀忍者を束ねる頭領であった。
弘治2年(1556年)、百地丹波は、伊賀上忍・百地家を束ねる百地正永の長男として生まれた。
諱は「正西」「新左衛門」であったが、ここでは一般的に知られる官位の丹波守から「百地丹波」と記させていただく。
天正伊賀の乱
戦国の魔王・織田信長の次男・信雄が北伊勢の北畠家の養子となり、北畠家を滅亡させた後に(※三瀬の変)自主独立していた伊賀国に天正7年(1579年)に侵攻した。
当時、初代・服部半蔵保長は三河国に移り、2代目・服部半蔵は徳川家康の譜代の家臣となり、北伊賀の上忍の1人・藤林長門守は頭領を息子・保正に譲っていた。
そのため、事実上伊賀国の忍者を統括していたのは百地丹波であった。
織田信雄は父・信長とは違って戦下手で、伊賀の忍者たちの敵を攪乱する戦法に苦戦し撤退、重臣・柘植保重(つげやすしげ)を殿としたが、百地丹波はその軍勢を打ち破って柘植保重を討った。
伊賀国に侵攻することを聞いていなかった信長は、命からがら逃亡してきた信雄に激怒し、「親子の縁を切る!」と叱責したという。
この戦いで伊賀忍者の強さを知った信長は、2年後に5万の大軍を率いて伊賀国に侵攻する第二次天正伊賀の乱を行なう。
この大軍相手では、さすがの百地丹波も伊賀忍者だけでは敵わないと考え、密かに藤林長門守の中忍で鉄砲名人の忍者・音羽の城戸(おとわのきど 本名・城戸弥左衛門)に命じて信長の射殺を命じたが、城戸は信長の暗殺に2度失敗し、百地丹波は伊賀国の諸将と共に柏原城に籠城した。
その後、百地丹波は信長軍の猛攻に耐えきれず和睦開城したのだが、信長は和睦の約束を破って伊賀の人々を惨殺した。
しかし、百地丹波は密かに逃亡し、それから数十年も生きたという。
百地三太夫との関係
有名な伊賀忍者・百地三太夫は、江戸時代の寛文年間に出版された盗賊・石川五右衛門を主題とした読本「賊禁秘誠談」で登場する架空の人物である。
物語では、百地三太夫は孤児であった石川五右衛門に忍術を授けたが、その後、五右衛門に愛妾と妻を殺害され、しかも金65両の大金を奪われ出奔したという。
百地三太夫は真田十勇士の1人で、忍者の霧隠才蔵の師だと設定されているが、百地三太夫は百地丹波をモデルにした創作の忍者なのである。
百地丹波と百地三太夫を同一人物だとする説もあるが、この時代の史料や「伊乱記」にも百地三太夫という名は登場せず、同一人物とする根拠は特に存在しない。
百地三太夫が百地丹波の孫という説もあるが、これも詳細は不明である。
現在三重県名張市の竜口に百地丹波の屋敷として「百地三太夫屋敷」があるが、百地三太夫と百地丹波は同一人物ではないとされている。
おわりに
織田信雄軍を完膚なきまで翻弄し、撤退させた伊賀忍者の頭領・百地丹波は実在の人物で、百地三太夫のモデルであった。
百地丹波は「喰代の百地丹波」と呼ばれ、後に藤林武次保武の忍術伝書「万川集海」で、陰人の上手十一人の1人として忍術の使い手12人に選ばれている。
一説には、江戸時代の寛永17年(1640年)4月18日まで生きていたとされている。
参考 : 『伊乱記』『日本人名大辞典』
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