新説「鳥取城の戦い」について
豊臣秀吉がまだ羽柴秀吉と名乗っていた頃、戦国の覇王・織田信長から中国地方の毛利氏を討つよう命じられた。
秀吉は西へと進軍し、日本海と鳥取砂丘を望む堅固な山城・鳥取城を攻めることとなった。秀吉が鳥取城下に到着したのは天正8年(1580年)であった。
鳥取城主の山名豊国は3か月の籠城戦の末、重臣たちが抗戦を主張する中、単身で秀吉軍の陣中に赴き降伏を申し出た。しかし、その後、豊国の重臣たちは彼を追放し、毛利氏の家臣である吉川経家を新たな城主として迎え入れた。
城内には備蓄米が少なく、田畑も荒らされ、兵糧の準備が整わないまま、再び戦いが始まることとなった。
秀吉は鳥取城に到着すると、総延長12kmにも達する大規模な包囲網を築き、周囲からの兵糧を断つ「鳥取城の渇え殺し」という凄惨な兵糧攻めを行ったのである。
この戦いは、秀吉の毛利攻略の一環で地方の戦いの一つというのが通説であった。
しかし、近年では単なる包囲戦ではなく、秀吉が信長と織田本隊を呼び込み、「織田 vs 毛利」の一大決戦を構想していたのではないかという新説が浮上している。
今回は「鳥取城の戦い」の経緯と「新説」について解説する。
第一次鳥取城の戦いまでの経緯
石山本願寺を下して畿内を完全に掌握した信長は、毛利氏を攻略するため、羽柴秀吉に中国攻めを命じた。
秀吉は播磨の別所長治を攻め、周囲の支城を次々と攻略し、「三木の干殺し」として知られる三木城の兵糧攻めを行った。別所長治一族は切腹し、1年10か月にも及ぶ長い籠城戦が終了した。
その後、秀吉は播磨の姫路城を拠点に播磨・但馬を攻略し、次に因幡の毛利氏の要である鳥取城主・山名豊国の攻略に向かった。
鳥取城は背後の久松山に本丸を置く巨大な山城で、全山を要塞化した極めて堅固な城であった。
天正8年(1580年)、秀吉は鳥取城に対し進軍を開始し、海からは弟・羽柴秀長が、西からは織田方についた南条氏が進軍して鳥取城を包囲した。
前述したとおり、この第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦の末に、鳥取城主・山名豊国は家臣たちの反対を押し切って秀吉に降伏を申し入れ、織田に臣従したのだ。
吉川経家が鳥取城に入城
秀吉が姫路城に帰った後、事態は急変した。織田方についた南条氏に対して毛利氏が攻撃を開始し、南条氏が孤立した。さらに因幡各地で反織田の一揆が勃発し、山名豊国は家臣たちによって追放され、鳥取城は再び毛利方の手に渡った。
そして、毛利本国から新しい鳥取城主として吉川経家が派遣されたのである。
吉川経家は自分の首桶を用意して鳥取城に入城したとされ、秀吉との戦いに対し相当の覚悟で臨んだ。
しかし、城内には備蓄米が少なく、田畑も荒らされていたため、兵糧の準備が整う前に秀吉が向かってきた。
この背景には、秀吉の側近・黒田官兵衛の巧みな作戦があった。黒田官兵衛は事前に周辺の米を高値で買い占めていた。これは、鳥取城の備蓄米を極力少なくするための兵糧攻め作戦であった。
天正9年(1581年)7月、再び鳥取城攻略に乗り出した秀吉は、鳥取城の周囲に付城群を築いて鳥取城を完全に包囲した。
これが第二次鳥取城の戦いである。
秀吉の構想
その要となるのは、鳥取城の背後に築いた「太閤ヶ平(たいこうがなる)」である。秀吉は標高263mの鳥取城の東方、標高231mの帝釈山上に本陣を構えた。
弟・羽柴秀長を始めとする配下の諸将たちが、毛利方の鳥取城・雁金山城・円山城の三つの出城を楕円状に取り巻いて、山嶺から城下まで総延長12kmにも及ぶ長囲の陣を敷いたのである。
太閤ヶ平は、野戦の陣城とは思えないほどの大規模で本格的なものであった。
この大規模な構えを築いた目的が、秀吉の戦略構想にあるのではないかという説がある。
それは「秀吉はこの太閤ヶ平に、主君・信長を招くつもりだったのではないか」というものである。
実際に秀吉が「御座所」という言葉を用いている文書も見つかっている。
地元の歴史研究家によると、秀吉が西の伯耆に進軍することで毛利の主力軍を引っ張り出し、そこに信長の本隊がやって来て、この地で毛利との一大決戦に及ぼうという構想があったのではないか、と推測されている。
つまり、鳥取城の攻略は毛利攻略の一環の戦いの一つではなく、毛利氏をここで一気に殲滅する戦略だったとする新説が浮上しているのである。
頓挫した秀吉の構想
しかし、秀吉のこの構想は頓挫することになる。毛利方の強い抵抗によって秀吉の西への進軍は阻まれたのだ。
秀吉は当初の予定通り西への進軍を続けるか、それとも西に進軍するのを断念して鳥取城の攻略に専念するのか、悩んだ。しかし、毛利が大崎城という堅固な城を準備していたこともあり、秀吉は西への進軍を断念し、鳥取城の攻略に専念することを決断した。
この戦いは物資を運び込もうとする毛利軍と、それを阻止するための包囲網を築く秀吉軍との戦いになった。秀吉は1,400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2,000人以上を城に追いやり、河川や海からの毛利軍の兵糧搬入を阻止した。
この時、鳥取城にはわずか20日分の兵糧しか残っておらず、瞬く間に兵糧は尽き、鳥取城内は飢餓状態に陥った。何週間か経つと城内の家畜や植物は食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し、中には死者の肉を食らう者まで現れたという。
この凄惨な兵糧攻めは「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれた。
【戦国史上最悪の籠城戦】 秀吉の鳥取城渇え殺し 〜「死肉を奪い合う城兵たち」
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/67994/
一方、秀吉軍も兵糧が尽きかけており、我慢比べの様相を呈していたが、秀吉の窮状を知った信長が船で兵糧を運搬させていた。
とうとう吉川経家が折れ、自らの切腹と引き替えに城兵の命を助けることで秀吉に降伏し、鳥取城は陥落した。
秀吉のエグすぎる戦術「鳥取城の飢え殺し」で自害した吉川経家とは
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/80869/
鳥取城の開城により、周囲の毛利方の国衆も次々と降伏し、秀吉は何とか因幡平定を成し遂げた。
備中高松城の水攻め
鳥取城の戦いの6か月後、秀吉は備中高松城を水攻めにした。
ここで秀吉は、ようやく望んでいた毛利本隊を後詰めに引きずり出すことに成功する。それに対して信長も兵を率いて出陣することを決定した。秀吉が鳥取城で成し得なかった毛利との一大決戦が、備中高松城で実現するはずであった。
しかし、出陣のために京都に入った信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれ、秀吉の考えた「織田 vs 毛利」の一大決戦はついに実現することはなかったのだ。
おわりに
総延長12kmの「太閤ヶ平」という大規模な陣城は、一地方の攻略戦にしては規模が大き過ぎる。
秀吉が「太閤ヶ平」を築いたのは、毛利軍を引っ張り出し、信長本隊との「織田 vs 毛利」の一大決戦を考えていたとする方が自然だろう。
中国地方には堅固な山城が数多く点在しており、それらを攻略していたら非常に時間がかかる。
秀吉が毛利本隊を引っ張り出して、一気に決着をつけようと考えることは戦略的にも実に合理的なのである。
参考 : 鳥取市観光サイト
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