戦国武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)は、多くの主君に仕えたことで知られている。
「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という言葉を残しており、生涯で11名の主君に仕えた。
藤堂高虎は、なぜこれほど多くの主君に仕えたのか、その理由と各主君との関係について詳しく見ていこう。
目次
1. 最初の主君 浅井長政
藤堂高虎が最初に仕えたのは、近江の戦国大名・浅井長政(あざいながまさ)である。
浅井長政は織田信長の義弟としても知られる有力大名であり、高虎も近江出身であることから、浅井家に仕えるのは自然な流れであった。父や兄も長政に仕えていたが、やがて兄が戦死し、高虎が藤堂家の跡取りとなった。
高虎と浅井長政との関係は良好であった。初陣でもあった姉川の戦い(1570年)で武功を挙げた高虎は、備前長船の脇差と金貨を褒美として受け取っている。また、小谷城籠城戦(1571年)でも奮戦し、感状(主君が武功の内容を記した書状)を受け取った。この感状は後の転職活動に役立ったのは間違いないだろう。
この長政からの褒美には深い思い入れがあったようで、その後の人生でも肌身離さず携帯していたと伝わる。
しかし高虎は、同僚を斬り殺してしまった罪で浅井家にはいられなくなってしまった。
2. 浅井家家臣の家を転々と 阿閉貞征と磯野員昌
浅井家にいられなくなった高虎は、浅井家の家臣の家を転々とした。
まず、阿閉貞征(あつじさだゆき)のもとに身を寄せた。阿閉貞征との関係は詳しくはわかっていないが、高虎は阿閉家でも同僚を切り殺し、長く勤める事なく家を去っている。若い頃の高虎は血気盛んだったようだ。
その後、磯野員昌(いそのかずまさ)に仕え、80石で仕えた。磯野員昌との関係は良好であったが、今度は磯野家の方に問題が起こってしまう。
織田信長の横槍により、磯野員昌は隠居させられ、かわりに信長の甥である津田信澄(つだのぶずみ)が当主となってしまったのである。
3. 信長の甥 津田信澄との確執
津田信澄と高虎の関係は非常に悪かった。
高虎は数々の武功を挙げたものの、信澄はそれを認めてくれなかったのだ。
その後、母衣衆に抜擢されるというチャンスを得たが、俸禄は80石のままで、馬を飼うこともできなかったため、高虎は信澄のもとを去った。
その後、信澄は本能寺の変の濡れ衣を着せられて討ち取られてしまうが、その遺児は高虎が引き取っている。
気が合わなくても一度は仕えた主君。高虎も思うところがあったのだ。
4. 秀吉の弟 豊臣秀長との運命的な出会い
1576年、高虎は運命的な出会いを果たす。
この頃、近江は浅井家が滅び、豊臣秀吉の支配下に入っていた。そして秀吉の弟である豊臣秀長に仕えることとなり、これが高虎を大名へと押し上げるきっかけとなった。
秀長は温厚な性格であり、兄をよく支える切れ者であった。秀長は高虎を300石で雇い入れた。これは津田家での80石に比べて大きな出世である。
その後、高虎は秀長のもとで、中国攻めをはじめとする秀吉の天下統一の戦いに多く参戦した。その間に結婚し、城を築き、さらには家老にまで出世した。秀長の養子を自分の家に迎え入れることまでしており、まさに秀長の右腕として重用されたのだ。
この主従関係は、秀長が亡くなるまでの15年間続いた。
その後、高虎は秀長の養子である豊臣秀保に仕えたが、秀保は若くして亡くなり、秀長の家系は断絶してしまった。
多くの秀長の家臣は秀吉の家来になったが、高虎はなんと出家して武士を辞めてしまったのである。
5. 武士の世界に復帰 豊臣秀吉と秀頼
武士を辞めて高野山へ出家してしまった高虎だったが、秀吉はそれを許さなかった。秀吉は高虎の才能を高く評価し、生駒親正(いこまちかまさ)に命じて彼を武士の世界に引き戻したのである。
こうして高虎は初めて独立大名となり、伊予宇和島に7万石の領地を与えられた。その後、慶長の役(1597年)に参加し、水軍の総大将として活躍した。この功績により、秀吉からはわざわざ一度帰国させられてまで褒美の船を与えられている。
このように秀吉との関係も悪くはなかったのだが、秀長ほど心酔していたわけではなかった。
秀吉の死後、高虎は息子の秀頼に仕える事になる。しかし彼はここから、豊臣家ではなく徳川家へ忠誠心を移していった。
6. 外様であったとしても 徳川家康との高い信頼関係
この頃、豊臣家の中で最大勢力を誇っていたのが徳川家康である。
高虎と徳川家康は、秀長が存命の頃から良好な関係を築いていた。家康の館を建設する際、高虎が家康の安全を考慮して独断で設計を変更したことが、その関係の始まりであった。家康はその心遣いに感謝したのだ。
関ヶ原の戦い(1600年)の前後から、高虎は家康の側近のような役割を果たすようになった。その動きに家康は満足し、高虎に重要な領地(伊勢と伊賀)を与え、各地の城の普請を任せた。
家康には譜代の家臣が多くいたが、高虎は後から仕えた外様の筆頭として信頼を置かれていた。家康は「戦の際は譜代は井伊家、外様は藤堂家を一番手とするように」と述べたという。
家康が死去する前には、外様で唯一枕元に呼ばれるという厚遇ぶりである。家康は、高虎にとって秀長と並ぶ最高の主君だったに違いない。
7. 徳川家の忠臣として 徳川秀忠と家光
秀忠のもとで、高虎は和姫の入内を成功させるなどの重要な任務を果たした。高虎は晩年には目を悪くしたが、どうしても城に招きたかった秀忠は、廊下の改修まで行って高虎を呼び寄せたという。
家光もまた、高虎との関係を大切にし、頻繁に酒宴や茶会を開いては昔の話を聞きたがった。高虎が家光のために建てた茶室(現在は上野動物園内に再建されている)に、家光は自ら「閑々亭」と名付けるなど、その親密な関係が伺える。
1630年に高虎が死去するまで、この良好な関係は続いたのである。
最後に
藤堂高虎は決して誰とでも仲良くできる性格ではなかった。
彼の主君遍歴を見ても、気の合う主君もいれば、そうでない主君もいた。晩年には人付き合いが上手になったようだが、若い頃は苦労が多かった。しかし、それでも彼は大名にまで出世し、多くの主君から信頼を得ている。
与えられた環境で精一杯努力し、それでも認められなければ新たな環境を求めて出世していった高虎の人生は、現代の私たちにも多くの教訓を与えてくれる。
参考文献:歴史街道2017年7月号、戦国人物伝 藤堂高虎、藤堂高虎公と遺訓二百ヶ条
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