安土桃山時代

【関ヶ原の戦い】 名将・大谷吉継の首はどこにいったのか? 「唯一自害した大名」

大谷吉継の首はどこにいったのか?

画像 : 大谷吉継の錦絵 public domain

1600年の「関ヶ原の戦い」は、天下分け目の戦いとして知られている。

一般的には徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の戦いとされる。(※正確には三成は西軍の総大将ではないが、中心人物であったのは確かである)

この戦いに西軍として参戦したのが、石田三成の親友である大谷吉継(おおたに よしつぐ)だ。

彼は西軍が敗北した際、唯一関ヶ原で自害した大名である。

その大谷吉継の首はどこへいったのだろうか。これにはあるエピソードが残っている。

病気の体をおして参戦した石田三成の親友

画像 : 石田三成 public domain

大谷吉継は、石田三成と共に豊臣秀吉の家臣として活躍した人物である。敦賀を治め、知恵者として知られていた。

主に、兵站などの縁の下の力持ちとして三成と共に活動していた。二人は親友であり、その友情は固かったという。

やがて吉継は、業病(ハンセン病だったという説がある)を患った。
そのため、周りから気味悪がられたり、「人を食べるために辻斬りをしている」などと、悪い噂を流されることもあった。
また、病気の影響で失明していたという逸話もある。

それでも二人の友情は変わらず、「衆道関係(男同士の恋人)なのでは」と噂が立つほどであったという。

画像 : 徳川家康 孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』public domain

吉継は最初、三成の挙兵には反対していた。

家康とも交流があった吉継は、「三成では家康に勝てない」と考えていたのだ。

しかし、三成は吉継を熱心に説得し、自分の屋敷に招いた彼を半ば軟禁する形で、自分の正当性と勝利の見込みを訴え続けた。
三成は、「吉継が協力すれば勝てる」と信じていたのだろう。最終的に吉継は三成の説得に折れ、協力することを決意した。

吉継は、三成にそれほど人望がないことも理解しており、総大将には毛利輝元宇喜多秀家を据えるように助言したという。

唯一戦場で自害した大名

画像 : 関ヶ原の戦い 布陣図 ※戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ

関ヶ原の戦いにおいて、吉継は三成のために奮戦した。

藤堂高虎・京極高知を相手に戦ったが、吉継の采配は見事に功を奏し、戦況を有利に進めていたとされる。

しかし、戦況に異変が生じた。

西軍の大名であり、共に戦うはずだった小早川秀秋が、突如として裏切ったのである。

画像 : 小早川秀秋 public domain

しかし吉継はこれを察知しており、謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、小早川軍を何度も山に押し戻したという。

吉継軍は寡兵にもかかわらず激戦を繰り広げ、小早川の「監視役」として派遣されていた東軍の奥平貞治は、この時に深手を負い、後に死亡している。

しかし、同じく小早川軍の裏切りに備えて配置していた、脇坂、朽木、小川、赤座の四軍までもが裏切ったのである。その数4200。これらの裏切りは、敵方の藤堂高虎が巧みに調略を行っていた結果であった。

さすがの吉継軍もこれには持ちこたえられず、次第に追い詰められ、吉継は関ヶ原の地で自害を選んだ。
吉継は「病気で崩れた私の醜い顔を、敵に晒すな」と、側近の湯浅五助に言い遺して果てたという。

三成を含む西軍の武将たちの多くは戦場から逃げ去ったが、吉継だけは最後まで逃げることなく戦い続けた。

吉継は唯一、最後まで忠義を貫いたのであった。

湯浅五助と対峙した藤堂仁右衛門

画像:太平記英勇伝九十四:湯浅吾助 public domain

湯浅五助は吉継の首を持って走った。そして適当な場所を見つけると、その場に埋めた。

しかし埋め終わった頃、五助は敵に発見されてしまう。

それは、藤堂高虎の義理の甥・藤堂仁右衛門高刑(にえもん たかのり)であった。

五助は仁右衛門に頼みこんだ。

「私の首をあげるので、どうか主君の首がここにあることを、秘密にしてほしい」

仁右衛門はその願いを聞き入れ、五助を討ち取り、彼の首を持ち帰ったという。

大谷吉継の首の行方

画像:徳川家康本陣跡 イメージ

仁右衛門が湯浅五助の首を持ち帰ると、主君・高虎は喜んで家康に報告した。

湯浅五助は、勇士として知られていた。
一方、仁右衛門は当時19歳。普通に戦って勝てる相手ではない。

家康は疑問に思い、仁右衛門に聞いた。

「湯浅五助は大谷吉継の側近。五助なら吉継の首のありかを知っていたはず。吉継の首はどこだ?」

仁右衛門は、こう答えた。

「大谷吉継の首のありかは言えません。湯浅五助に他言しないと約束した上で首を討ち取ったからです。言えない事が不興でしたら、どうぞ私を処分してください」

吉継の首を発見すればさらなる大手柄だったにもかかわらず、仁右衛門はそう言い放ったのだ。

家康はこの姿勢に感心し、備前忠吉の刀と槍を仁右衛門に渡したという。

こうして吉継の首は、関ヶ原の地中で眠ることとなった。

大谷吉継の首塚

画像:関ケ原町の大谷吉継の墓(右)の隣にある湯浅五助の墓(左) wiki c Rikita

関ヶ原には大谷吉継の墓がある。これは誰が建てたのだろうか。

これは戦後間もなく、藤堂家が建てたものである。

首のありかを知っているのは藤堂仁右衛門だけ。つまり藤堂家が仁右衛門の言葉に従い、首の場所に墓を建てたと推測できる。

そして隣には、湯浅五助の墓も並んでいる。
こちらは大正時代に入ってから、五助の子孫によって建てられたものだという。

現在は関ヶ原の観光スポットの一つになっている。行く場合は登山になるので動きやすい服装を推奨する。

おわりに

画像:関ヶ原の戦い イメージ

吉継の親友・石田三成は、関ヶ原の敗戦後に家康によって処刑された。あの世で再会できただろうか。

その後、仁右衛門は主君・高虎の片腕となって活躍したが、大坂の陣にて豊臣方と戦い戦死している。享年39。

大谷吉継の子・吉治は、義兄弟である真田幸村(吉継の娘は幸村の妻)と共に大坂城に入り、徳川方と戦い戦死している。
吉継の首をめぐって一時は情を見せた両家も、結局は大坂の陣で再び敵対関係となってしまったようだ。

それでも現代まで大谷吉継の墓が残っているのは、命令を守った五助、約束を守った仁右衛門のおかげなのである。

参考 :『常山紀談四』『関ヶ原町歴史民族学習館 第2章 史跡関ヶ原古戦場の概要』

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. そろばん教室の開祖・毛利重能【昔は割り算九九があった】
  2. 破天荒で自由気ままな剣豪・伊藤一刀斎【一刀流の流祖】
  3. 2万人が命を落としたガダルカナルの戦い「戦病死者が戦死者を上回る…
  4. 本願寺顕如について調べてみた【信長の最大のライバル】
  5. 大坂の陣について詳しく解説【冬の陣、夏の陣】
  6. 忠臣蔵(赤穂事件)は、一体いくら位のお金がかかったのか? 〜後編…
  7. 毛利輝元は本当に無能な武将だったのか?【関ヶ原では一戦も交えず撤…
  8. 薩摩藩士50名以上と家老・平田靭負が自害した「宝暦治水事件」の悲…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

北条義時の子孫? 徳川家康に内通して殺された戦国武将・江馬時成の生涯

鎌倉時代、幕府の第2代執権として武士の世を切り拓いた北条義時(江馬小四郎)。その子孫は鎌倉幕…

キッチンカーはなぜ人気なのか?【開業許可と種類】

フードフェスだけではなく、音楽フェスなどの野外フェスで必ずお世話になるといってもいいのがキッ…

「偉かったのはどっち?」日本では『神と仏』 どちらが上位とされたのか? 神仏習合の見地から考えてみた

日本人に馴染み深い宗教といえば、神道と仏教の2つであろう。一般的に言われているのは、神道は日…

【正体はただの人間だった?】 変質者や犯罪者としか思えない妖怪伝承 4選

妖怪とは読んで字のごとく、「あやしさ」の二乗である。古来より不可解で「あやしい」物事は、妖怪…

吉田城へ行ってみた【続日本100名城】

吉田城の歴史吉田城(よしだじょう。愛知県豊橋市今橋町の豊橋公園)がある「吉田」は、東海道53…

アーカイブ

PAGE TOP