安土桃山時代

秀吉亡き後、なぜ黒田家は家康に味方したのか? 小早川秀秋を裏切らせた黒田長政

関ヶ原の戦いにおいて、西軍を裏切り、東軍の勝利に決定的な影響を与えた武将として最も知られているのが、小早川秀秋である。

この裏切りの場面は、映画やドラマで何度も取り上げられてきた。

だが、なぜ小早川秀秋は裏切ったのだろうか。その背後には、彼を調略し、寝返りを促した者たちの存在があった。

その中心人物こそ、豊臣秀吉の側近として活躍した黒田孝高(官兵衛)を父に持つ、智勇に優れた武将・黒田長政であった。

長政は、どのような経緯で秀秋を裏切りへと導いたのだろうか。

黒田官兵衛の嫡男

画像 : 黒田官兵衛 public domain

黒田官兵衛は豊臣秀吉に重用された人物であり、その才覚を高く評価された。

その才は、主君である秀吉までもが恐れたという。
老いてもその頭脳は衰えず、晩年の「石垣原の戦い」を含む九州方面での活躍は、「実は天下を狙っていたのでは」と後世においても論じられるほどである。

その長男として生まれたのが黒田長政である。幼名は松寿丸。

官兵衛は正室である櫛橋光との間に、長政と熊之助の二人の息子がいた。しかし、弟の熊之助は後の朝鮮出兵(慶長2年 1597年)の際に、海難事故で若くして命を落としている。

ある日、官兵衛が敵の城に交渉に行ったまま戻ってこないという事件が起こった。(有岡城の戦い)

この時、秀吉の主君であった織田信長は「官兵衛が寝返った」と誤解し、見せしめとして松寿丸(長政)の首をはねるよう命じた。
この危機を救ったのが官兵衛の盟友・竹中半兵衛で、半兵衛が偽の首を献上したことで、松寿丸は命を繋ぐことができたという。

このように、長政は幼少期から過酷な戦国時代の洗礼を浴びたのである。

その後は秀吉の中国攻めに従い、備中高松城攻めの前哨戦となる冠山城の戦いで、初陣を果たしたとされる。

信長亡き後、秀吉が天下統一へ向けて動いていく中で、長政は豊臣政権中枢の武将たちとも交友を深め、未来の大名としての基盤を築いていったのである。

豊臣家から心が離れた理由

画像:蔚山籠城図屏風 public domain

このように、豊臣家の中心で育った長政であったが、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍についている。それはなぜだろうか。

その要因とされる説の一つが、父・官兵衛への秀吉の対応である。

官兵衛は、1592年からの朝鮮出兵「文禄の役」において二度、朝鮮に渡っているが、その際に石田三成と揉めたという逸話がある。
石田三成、増田長盛、大谷吉継の三奉行が晋州城攻めについて協議するために、官兵衛の元を訪れたが、官兵衛は浅野長政と囲碁を打っていた。普段から気に食わぬ面子であったため、官兵衛は三成らを待たせて囲碁を打ち続けた。『※益軒全集巻5 黒田家譜卷之七』

この対応に激怒した三成は、秀吉に報告した。
この際、秀吉は「官兵衛は特異な人物である」として一旦は咎めなかったが、このことを知った官兵衛は弁明のために無断で帰国した。

しかし、このとき秀吉は明の勅使が来ないことに怒っており、官兵衛の無断帰国に激怒して切腹を言い渡した。
官兵衛は謝罪のために出家し「如水」と名乗り、蟄居(自宅謹慎)し、朝鮮に残っている長政に遺書を送った。

これに驚いた長政が秀吉に申し開きをしたため、官兵衛はどうにか切腹を免れたという。

さらに5年後、「慶長の役」の際に起きた蔚山城での逸話がある。

加藤清正と浅野幸長が蔚山城に籠城し、多くの敵に包囲される危機的な状況で、長政は救援に駆けつけ、敵軍を退却させることに成功した。しかし、退却する敵への追撃を行わなかったため、秀吉から「臆病者」と非難されることになる。

この報告を秀吉に行ったのは、石田三成の家臣たちであった。

長政が後に東軍として戦うことを選んだのは、こうした要因があったと推測されている。

三成襲撃事件にも参加

秀吉の死後、文禄・慶長の役において、石田三成に対する恨みを抱いた七人の武将が、三成を襲撃する事件を起こした。

いわゆる「三成襲撃事件」である。(※近年では訴訟事件だったという説も)

この七将には黒田長政も含まれており、この事件の結果、三成は失脚して佐和山城で隠居生活を余儀なくされた。

家康から頼られた黒田長政

画像 : 黒田長政 public domain

上杉家が武装し始めたことで、家康はこれを討伐するため会津征伐を行うこととなった。

この際、家康に義理で味方した武将と、自ら進んで味方した武将とが存在したが、長政は後者であった。
この時点で、家康と長政の間には信頼関係が築かれていた。なぜなら、家康の養女と長政が縁組しており、長政はすでに家康の婿となっていたからである。『寛永諸家系図伝』

会津征伐の途上、石田三成が挙兵したという知らせが諸将に届く。

このとき、家康と共に行動していた武将たちは「家康につくか、三成につくか」という選択を迫られることとなった。どちらの勢力も豊臣秀頼の家臣として行動しており、秀頼がどちらにつくか不明であったためである。

特に「義理」で家康と共に行動していた武将が問題だった。その中心が福島正則である。

福島正則は「秀吉子飼い」の武将であり、秀頼を大切に思っていることが明らかであったため、もし正則が「三成につく」と宣言すれば、秀吉を慕っていた武将たちが連動して三成につく可能性があった。

この時、家康が「正則はどちらにつくだろうか?」と長政に問うと、長政は「家康様につくでしょう。正則は三成を嫌っているからです」と即答したという。

そして実際に正則は家康に味方した。家康はさらに長政への信頼を深めることとなった。『長政記』

小早川秀秋を裏切らせ、関ヶ原を勝利に導く

画像:伝・小早川秀秋所用の猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織 wiki c 国立博物館所蔵品統合検索システム

長政は、関ヶ原の戦いの「勝利の立役者」とも言えるだろう。

なぜなら、毛利家を内部分裂させ、「鶴翼の陣」を敷いていた西軍の翼を折ったからである。

毛利家は「三本の矢」の逸話で知られるように、毛利本家、吉川家、小早川家の三家から成り立っており、当初はどの家も西軍に属していた。これは、毛利本家の主君・毛利輝元が西軍の総大将を務めていたためである。

長政は、特に小早川家と関わりがあった。小早川家の先代当主である隆景は、父・官兵衛と親交があり、現当主の小早川秀秋においても家老の平岡頼勝が長政の義理の従兄弟であった。『新編藩翰譜』

秀秋はまだ二十歳前であり、家老の助言が大きな影響力を持っていた。長政はこの関係を利用し、秀秋に内応を促す書状を送ったとされる。『黒田長政・浅野幸長連書状』

そして平岡頼勝を介し、秀秋が寝返るという情報が家康陣営に送られたのである。

画像 : 関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)wiki(c)を元に作成

さらに長政は、吉川家にも働きかけていた。

吉川広家は官兵衛と親しく、長政とも交流があった。

決戦前日に吉川家の使者が、長政に「毛利家の進退の保証さえあれば、明日西軍と手切れの戦をします」と伝え、長政が広家の内応を、家康に取次する書状が残っている。『黒田長政直筆書状』

こうして西軍は内部分裂を起こした。当日、小早川秀秋は東軍側に寝返り、西軍の部隊に襲い掛かった。

吉川広家も、東軍本陣の背後をつく南宮山の先頭に布陣していたにもかかわらず、「弁当を食べる」などと言い、その場から動かなかったため後続が動けず、西軍は大きく戦力を削がれることとなり、最終的に敗北したのである。

おわりに

画像:黒田長政の兜を模した噴水 ※筆者撮影

黒田長政は遺言書の中で、「父・官兵衛がその気になれば、東軍を倒すこともできた」といった旨を明言している。『黒田家文書』

これは、父・官兵衛の威光を高めて黒田家を鼓舞する目的があり、虚実が入り混じっているとされているが、父・官兵衛に対して深い尊敬の念を抱いていたようだ。

官兵衛から受け継いだ智謀と行動力を駆使し、西軍を分断した長政は、関ヶ原の戦いの一番の功労者とされ家康から感状を賜り、筑前国名島に52万3,000余石を与えられた。

戦国の世を終わらせる大きな原動力となった一人といえるだろう。

参考:『益軒全集巻5 黒田家譜卷之七』『歴史道』『寛永諸家系図伝』『長政記』ほか
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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