
画像 : 桶狭間広域図 戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第4回で描かれた桶狭間の戦い。
この戦いで大きく運命を変えたのは織田信長だけではない。今川家の下で逼塞していた松平元康(のちの徳川家康)は、桶狭間の戦いののち、独立に向けて動き出す。
今回は、松平家が今川家の傘下となった経緯を取り上げ、桶狭間の戦いにおける元康の奮戦、そして独立と織田家との和睦に至るまでの流れを解説する。
織田から今川へ

画像 : 東照大権現像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵) public domain
元康の実家である松平家は、駿河の今川家と尾張の織田家に挟まれた、三河の弱小勢力であった。
天文16(1547)年、元康の父である松平広忠は、尾張の織田信秀との戦に敗れ降伏。
いまだ幼少であった嫡子の竹千代(のちの元康)は、織田家に人質として差し出されることとなった。
天文17(1548)年、三河小豆坂で、太原雪斎率いる今川軍と、織田信秀率いる織田軍が激突した。
この戦をきっかけとして再び今川方に属するようになった松平家であったが、天文18(1549)年、突如として広忠が死去。
この事件をきっかけに、松平家の居城であった岡崎城は今川家に接収されてしまう。
織田と今川との人質交換によって、それまで尾張にいた竹千代は岡崎城に帰還。
ほどなくして、竹千代は今川家の本拠である駿府に送られることとなった。
そして天文24(1555)年3月、14歳となった竹千代は、元服して松平次郎三郎元信と名乗る。
弘治3(1557)年ごろ、元信は今川家の一族である関口氏の娘・築山殿を妻に娶り、一門に準じる有力武将として扱われることとなった。
この間にも、三河や尾張では織田家と今川家の争いが続いていた。
永禄元(1558)年ごろ、祖父・松平清康の一字をとり、元信は名を松平元康と改める。
運命の桶狭間

画像:尾州桶狭間合戦 public domain
永禄3(1560)年5月、義元は尾張に向けて出兵した。
2万5000ともいわれる大軍を率いての直々の出馬である。このとき、先陣を命じられたのが元康であった。
配下の岡崎勢を率いた元康は、織田家臣の佐久間盛重が守備する丸根砦を攻略。
間もなく元康は織田方に包囲されていた大高城に兵粮を搬入し、義元率いる今川本隊の到着を待つこととなった。
だが、ここで誰もが予測していなかった事態が発生する。
5月19日に、桶狭間山で休息していた今川の本隊を織田信長が強襲。そのまま義元を討ち取ってしまったのである。
同じ日の夕方に義元の死を知った元康は、真夜中になるのを待って大高城から脱出。一路、松平家の本城であった岡崎城を目指して進軍する。
そして5月23日、元康は今川勢が放棄した岡崎城に晴れて入城した。
今川家の人質として駿府に送られてから、実に11年ぶりの帰還であった。
独立前夜

画像 : 今川氏真 public domain
永禄3(1560)年5月、岡崎城に帰還した元康は、松平家の当主として積極的な領国経営に乗り出していく。
ここから1年ほどの間に、元康は領内の寺社勢力や国衆の統制を強化していくとともに、今川方が撤退したあとの三河西部の制圧を進めていった。
また、元康はこれらの動きと並行して、織田方に属していた伯父・水野信元と、尾張付近で抗争を繰り広げている。
まるで完全に独立勢力となったかのような動きであるが、この時期の松平家は依然として今川家の傘下にあった。
元康が引き続き織田方の勢力と交戦しているのも、三河西部における今川方の勢力を維持する意味合いもあったと考えられている。
だが、桶狭間の戦い以降、三河では反今川家勢力の動きが活発化していった。
義元のみならず、譜代の家臣団や国衆などの諸将が多数戦死したことによって軍事力を著しく低下させていた今川家は、この事態に有効な手を打てずにいた。
そして8月には長尾景虎(のちの上杉謙信)が北条氏康討伐を大義名分にかかげ、関東に向けて出兵する。
今川家は同盟国である北条家との共闘で手一杯になり、三河の混乱を事実上放置せざるを得なくなってしまったのである。
当然のことながら、この事態に三河の国衆は今川家との従属関係を見直すようになっていく。
今川家の親類でその傘下にあった元康も、例外ではなかった。
元康の決断

画像 : 家康公像と富士山 photoAC M.denko
永禄4(1561)年春、事態は大きく転換した。
水野信元の仲立ちによって、松平家と織田家は和睦したのである。
天正10(1582)年の本能寺の変まで、20年以上続く両家の友好関係の始まりであった。
この和睦の締結によって、松平家は長年続いていた織田家の領国侵犯からようやく解放された。
同時に、尾張統一や美濃攻略に専念したい信長にとっても、この和睦のメリットは大きかった。
なお、大河ドラマでは永禄5(1562)年、元康本人が清須城で信長と対面して同盟が結ばれたかのように描かれているが、同時代の史料ではこのとき両者が会談したという記録はない。
また、不安定な情勢にある三河を抜け出してわざわざ清須城に赴くような余裕が、この時期の元康にあったとは考えにくい。
以上のことから、ドラマで描かれているような信長と元康の会談は史実ではなく、ただ単に和睦と領土に関する協定を書状で取り交わしただけだったのではないか、とするのが近年の説である。
織田家との和睦を背景として、永禄4(1561)年4月、元康はいよいよ三河東部へと侵攻をはじめた。
そしてこれ以降、三河各地では国衆が松平方と今川方に分かれ、抗争を繰り広げることとなる。
参考資料 :
『生年家康 松平元康の実像』柴裕之著 角川選書
『徳川家康の決断』本多隆成著 中公新書
『徳川家康合戦録』渡邊大門著 星海社新書
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部























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