幕末明治

なぜ「討幕」の中心が薩摩と長州だったのか?幕府への怨恨だけではなかった

画像 : 徳川慶喜 public domain

1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は朝廷に政権を返上し、大政奉還を断行した。

これによって約260年続いた江戸幕府は、その歴史的役割を終えていくこととなる。

もっとも、慶喜が大政奉還に踏み切った背景には、激しさを増す倒幕運動をかわし、逆に政治的主導権を握り返そうとする思惑もあった。

しかし討幕派は、王政復古の大号令を発して旧幕府勢力を揺さぶり、これが鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争へと発展する。

こうして江戸幕府は完全に崩壊した。

この討幕運動の中核を担ったのが、薩摩藩長州藩である。

今回は、なぜこの二つの藩が倒幕の主導勢力となり得たのか、その背景を探っていく。

豊富な経済力で倒幕の主軸になった薩摩と長州

画像:関ヶ原合戦屏風 public domain

幕末の討幕運動を薩摩藩と長州藩が主導した背景については、両藩が徳川家に対して抱いていた「怨恨」が大きな要因であるとする説がよく唱えられる。

その恨みの発端として挙げられるのが「関ヶ原の戦い」後の処理である。

家康は東国を安定させるため、外様大名を西国に押し込める政策をとり、その代表例が長州藩の毛利家であった。

画像 : 毛利輝元 public domain

関ヶ原当時、西軍の総大将を務めていた毛利輝元は、戦後、安芸国など八カ国・112万石から、周防国と長門国の二カ国・29万8000石へと大幅に減封されることとなった。

また、真偽のほどは定かではないものの、毛利家の新年拝賀の際に、重臣が「今年の倒幕の機はいかに」と伺い、藩主が「時期尚早」と答えるのがしきたりになっていたという逸話も伝わっているほどである。

このように、毛利家の怨恨は260余年を経た幕末にまで持ち越されたとされるのである。

一方、薩摩藩は西軍についたものの、徳川四天王の一人である井伊直政の取りなしなどが功を奏し、辛うじて本領を安堵された。

しかし、1754年(宝暦4年)から翌年にかけて幕府の命で実施された「木曽三川治水工事」は、多額の経費を要したため莫大な借財を生み、藩財政は経済破綻の危機に陥った。

さらに治水工事では、監督にあたった幕府側から苛烈な仕打ちが加えられ、それに抗して自刃する藩士が後を絶たない状況となった。

加えて、その後の過酷な財政改革は藩内の人々を大いに苦しめ、幕府への恨みを募らせる結果となった。

画像:木曾三川改修工事で犠牲になった薩摩藩士を祀った治水神社 public domain

いずれにせよ、こうした怨恨が両藩による倒幕主導の一因とみなされてきたことは確かである。

とはいえ、幕府に対する根強い不満が存在していたとしても、薩摩・長州両藩が執拗なまでに幕府を追い詰める討幕派へと傾いていった理由は、それだけではなかったと考えられる。

その背景には、両藩が藩政改革に成功し、幕末期には財政的に余裕を持つに至っていたという事情がある。

この財政力によって、彼らは自力で西洋から軍艦を購入し、鉄砲をはじめとする最新式の兵器を独自に調達することが可能となったのである。

ここからは、薩摩藩と長州藩が実施した藩政改革について見ていくことにしよう。

調所広郷が主導した薩摩の藩政改革

画像:調所広郷像 public domain

薩摩藩における藩政改革のきっかけとなったのは、前述した「木曽三川治水工事」であった。

とりわけ天保期の改革は、深刻な財政難を打開するため、調所広郷(ずしょひろさと)を中心に1828年(文政11年)から約20年にわたり進められたものである。

この改革は、第8代藩主島津重豪(しまづしげひで)の命により始まり、のちに第10代藩主島津斉興(しまづなりおき)の厚い信任を得て推進された。

調所は、藩債の整理、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大など、積極的な政策を次々と打ち出し、逼迫していた財政の立て直しに成功した。

その結果、幕末期の薩摩藩が活躍する基盤となる備蓄金を蓄えることができたのである。

さらに1851年(嘉永4年)に第11代藩主となった島津斉彬は、洋式軍備の導入や藩営工場の設立を進め、近代化政策を一層推し進めた。

このように、薩摩藩にとって苦い経験となった「木曽三川治水工事」は、皮肉にも大規模な藩政改革の契機となり、後の倒幕運動を支える原動力へとつながっていったのである。

村田清風が行った長州の藩政改革

画像:村田清風像 public domain

長州藩の藩政改革は、第13代藩主・毛利敬親(もうり たかちか)が抜擢した村田清風を中心として進められた。

村田は、藩の特産品であった蝋に着目し、まず藩による専売制を廃止して商人による自由な取引を認めた。
その代わり、商人たちに運上銀を課し、税として藩に納めさせる仕組みを整えたのである。

また、日本海と太平洋を結ぶ海上交通の要衝である関門海峡(下関海峡)に注目し、これを活用した新たな経済政策を打ち出した。

豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用し、下関を通過する諸国の貨物に対して資金を貸し付ける「越荷方」と呼ばれる藩営金融業を開始させ、多大な利益を得ることに成功したのだ。

さらに、下級藩士を積極的に登用して藩政改革を推進するとともに、軍備の強化と近代化も進めている。

これらの改革により、長州藩は禁門の変や長州征伐で窮地に追い込まれながらも、薩摩藩との同盟を通じて倒幕勢力の中心へと躍り出ることとなったのだ。

画像:鳥羽伏見の戦い。富ノ森の遭遇戦 public domain

薩摩藩と長州藩が倒幕勢力の中核となり得たのは、単に幕府への怨恨だけが理由ではない。

江戸時代後期、多くの大名が深刻な財政難に苦しむなかで、両藩は大胆かつ先進的な藩政改革を成功させた。

こうした改革によって財政基盤と軍事力を強化し、時代の変革を主導するだけの実力を備えていたことこそが、両藩が倒幕において主導的立場を確立できた最大の要因であったと言えるだろう。

※参考文献
井沢元彦著 『学校では教えてくれない江戸・幕末史の授業』 PHP文庫
文:高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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