大政奉還の狙い
徳川慶喜は15代将軍に就任して1年足らずで朝廷に政権を返上した。
1866年に政権を返上した出来事を大政奉還という。岩倉具視ら討幕派に倒幕の密勅が下ったという知らせが慶喜に入り、土佐藩の山内容堂と後藤象二郎が政権を返上するように進言したことで、慶喜は政権を返上することを決意した。
大政奉還によって、倒幕の密勅が下った討幕派の関心をそらすことが狙いであると言われている。徳川慶喜は政権を自ら返上することによって朝廷内で政治に参加し、発言権を強めることができると考えたようだ。
ところが、若かった明治天皇をトップとする新しい政権が樹立した。この出来事を王政復古の大号令という。
この新政権については、幕府と朝廷を廃止して総裁・参与・議定の三職を置き、薩摩藩や長州藩など有力な代表を付けることを決めた。旧江戸幕府から松平春嶽がポストにつくことはできたが、徳川慶喜抜きで強引に決めたこと、新政府が官職・領地を天皇に返還させること(辞官納地)を小御所会議で決めるなど、幕府側は追い詰められていった。
この会議で決まったことに対して旧幕府側は反発し、新政府軍と旧幕府軍との戦いにつながっていく。
明治新政府と旧幕府軍との戦い
1868年1月から1869年まで明治新政府軍と旧幕府軍との戦いが始まる。この一連の戦いを戊辰戦争という。
最初は1868年1月に京都の鳥羽・伏見の戦いである。この戦いで旧幕府軍は敗北した。徳川慶喜と松平容保ら幕閣は鳥羽・伏見の戦いの直前に、深夜に大坂城を抜け出して軍艦で江戸城に向かっていた。この戦いで明治新政府軍が勝利すると、慶喜追討令が出され、江戸城に向けて進軍する。
退却した徳川慶喜は徳川宗家を守るために恭順の意思を示すことを決意する。交渉を勝海舟に任せ、寛永寺において謹慎した。そして勝海舟と新政府軍の西郷隆盛との交渉によって江戸城開場が決まった。この出来事を江戸城無血開城という。
慶喜は戊辰戦争が終結するまで謹慎生活をつづけたと言われている。
江戸城無血開城後の戦いについては、東北の諸藩が中心となった奥羽越列藩同盟が結成された。この同盟で越後国の長岡藩にはガトリング砲があった。河合継之助がガトリング砲を用いて明治新政府軍に抵抗するが、戦いに敗れた。
その後、明治新政府軍は会津藩の松平容保と戦った。この会津藩での新政府軍と旧幕府軍との戦いを会津戦争という。
この戦争において、白虎隊の悲劇や女子が自刃するなど数多くの悲劇が生まれた。8月21日から約1か月間、昼夜問わず会津の鶴ヶ城に砲弾が撃ち込まれたという記録が残っている。9月22日に会津藩が降伏し、会津戦争が終わった。
戊辰戦争の最後の戦争である五稜郭の戦いでは、旧幕府軍の大将が榎本武揚で、戦いの中には新選組の土方歳三がいた。五稜郭では明治新政府とは異なる独立政府を樹立する動きがあったとも言われている。
明治新政府軍に最後まで抵抗していたが、土方歳三が戦死すると求心力が落ち、降伏した。
大政奉還後の徳川慶喜
大政奉還後、徳川慶喜は明治新政府に加わることができず、戊辰戦争が終るまでの間謹慎生活を送っていた。
戊辰戦争が終わり、謹慎処分が解除されると静岡に移り住んだという記録が残っている。静岡に住んでから、写真・狩猟・囲碁・謡曲など多趣味で、亡くなるまで趣味三昧の生活を送った。写真については鉄道写真や写真集にも慶喜が撮った写真を載せていたという記録も残っている。
戊辰戦争後しばらくの間静岡に移り住んでいたが、貴族院議長に就任すると東京に移り住み大政奉還後初めて明治天皇に拝謁している。
貴族院議長を退任すると趣味三昧の生活を楽しむ余生を送った。
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