陸援隊の創設者
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、土佐出身の幕末の志士であり、坂本龍馬の暗殺時に同じくその凶刃に倒れて亡くなった人物です。
坂本龍馬の存在感の大きさ故か、今ひとつ知名度が低い傾向があるように思えますが、薩長同盟の締結においては龍馬ともに奔走し、その成立に多大な貢献を果たしました。
また、長州の高杉晋作が創設した「奇兵隊」を参考とした「陸援隊」を造り、その隊長も努めた人物でした。
志士への一歩
中岡は、天保9年(1838年)に高知の中心部から西に凡そ60kmほど離れた、安芸郡北川郷柏木村の北川郷の大庄屋・中岡小傳次の長男として生まれました。
龍馬が天保6年(1836年)の生まれですので2年ほどの違いがあります。
中岡の家は、庄屋を束ねる大庄屋と呼ばれた家柄で、経済的には恵まれた環境であったと伝えられています。
中岡は、安政2年(1855年)に武市瑞山が主催していた剣術道場へ入門し、ここで知己を得たことで、文久元年(1861年)に武市が結成した土佐勤皇党に加わり志士としての一歩を踏み出しました。
脱藩して長州へ
中岡にとって大きな転機となったのが、文久2年(1862年)に長州藩の久坂玄瑞らとともに、信州の松代に佐久間象山を訪ねた経験でした。
ここで当時の日本の最先端の知識人と言える象山から国防や政治手法の改革についての知識を得たことで、その後の指針としたと思われます。
翌文久3年(1863年)に京において八月十八日の政変が起こると、公武合体派が勢いを取り戻し、各国で尊王攘夷派の弾圧が始まりました。
中岡は、いち早く土佐を脱藩してその難を逃れ、同年9月に長州へと移りました。
ここで、長州藩に集った脱藩志士らの中心的存在役となると同時に、京から周防の三田尻に逃れていた公卿・三条実美の衛士を務めることになり、長州を始めとする志士らとの連携を図る立場となっていきました。
薩長同盟
中岡は元治元年(1864年)に京に上ると、脱藩した志士たちを糾合して長州勢に加わり、禁門の変に参加しました。
続く一次長州征伐にも加わり、そこでは禁門の変で自刃した真木和泉に代わって忠勇隊を率いました。
この後中岡は、幕府に敗北して恭順を示した長州を離れ、三条実美らを連れて九州の太宰府へと向かいました。
そこでは、薩摩の西郷隆盛や筑前の月形洗蔵との会合を持ち、また以前から薩摩勢と接触のあった龍馬とも連携して、薩長同盟の下地作りを行いました。
こうして慶応2年(1866年)1月、ついに薩長同盟が結ばれることになりました。
ここに至る過程において、中岡自身も単なる尊皇攘夷論から、力を持つ雄藩連合による武力倒幕論へと、その方向性を発展させていました。
薩摩と土佐
その後中岡は、慶応3年2月(1867年3月)に同じく脱藩していた龍馬と共に土佐藩からその罪を赦され、今度は薩摩と土佐の同盟の締結に奔走しました。
同年の5月には、土佐の板垣退助と薩摩の小松帯刀・西郷隆盛とを結び付けて、武力倒幕を前提とした薩土密約を結ぶことに成功しました。
更に薩摩と土佐を本格的に討幕の武力を行使する関係に発展させるための活動を続け、6月には京の「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛と土佐の寺村道成、後藤象二郎、福岡孝弟、中岡、坂本龍馬が参加して、倒幕・王政復古を目指した薩土盟約を成立させました。
中岡慎太郎 の最期
この後 中岡は、慶応3年6月に長州の奇兵隊を参考にした陸援隊を創設し、自ら隊長に就任しました。
同時期には、討幕と大攘夷を唱えた『時勢論』も記しています。
しかし、同年11月15日(12月10日)、京の近江屋に坂本龍馬を訪れていた際に、刺客らの襲撃を受けて重傷を負いました。
このとき龍馬はほぼ即死の状態でしたが、中岡はその後2日間息があり、襲撃の様子を谷干城ら土佐の仲間に語ったと伝えられています。享年30で迎えた志士の最期でした。
有名なのは坂本龍馬ですが、中岡慎太郎の方を評価する人も多いです。
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