幕末明治

井上馨 〜賛否両論の明治の汚職政治家

毀誉褒貶の激しい政治家 井上馨

井上馨

※井上馨 1836 – 1915

井上馨(いのうえかおる)は長州藩出身の明治時代を代表する政治家ですが、大変 毀誉褒貶(きよほうへん:良い評判と悪い評判)の激しい人物としてその名を歴史に残しています。

井上は明治維新後には、太政官制時代に外務卿、参議を務め、内閣制度が開始された後には黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣などの重要閣僚として政務に就きました。

特に伊藤博文の盟友として重用された政治家でしたが、その悪名も含めて大正4年まで生きて天寿を全うしました。

井上の政治家としての否の部分に着目してその生涯を調べてみました。

尊王攘夷から開国派へ

井上馨

※長州藩士時代の井上馨

井上は、天保6年(1836年)に長州藩士の井上光亨の次男として生まれました。伊藤博文が天保12年(1841年)の生まれであり、井上の方が5歳ほど年長にあたります。

井上は下級武士の志士が多い中にあっては、比較的高い身分の出自で、長州の中では珍しく吉田松陰松下村塾には学んでいない人物でした。

井上は安政2年(1855年)藩主の参勤に従って江戸に上り、そのときに伊藤らと邂逅したとされています。

江戸での井上は蘭学を学ぶ傍ら、高杉晋作らの文久2年(1862年)12月のイギリス公使館焼討ちに加わるなど、尊王攘夷活動に身を置いていました。

しかし翌文久3年(1863年)に藩に洋行を願い出て許され、伊藤らとともに後世に長州五傑とよばれる人物の一員としてイギリスに渡航しました。

イギリスを見分した井上はその国力の差を知ると開国派へと転向し、翌元治元年(1864年)の下関戦争では伊藤と日本へ戻り和平の折衝に奔走しました。

尾去沢銅山の汚職事件

※史跡尾去沢鉱山

井上は明治維新後に木戸孝允の周旋もあって大蔵省に入ることとなり、伊藤と共に新政府の財政面に関与しました。

明治4年(1871年)7月には大蔵大輔に就任し、大蔵卿を務めた大久保利通らが岩倉使節団として外遊したため、留守政府においては財政面での事実上のトップに君臨し「今清盛」と称されるほどでした。

そうした中で井上は、尾去沢銅山の汚職事件を起こしています。

これは同銅山を大蔵省の高官である立場を利用して私物化しようとした事件であり、被害者が司法省に訴えたことで、司法卿であり政敵でもあった江藤新平に追及され、井上の逮捕を要求したものでした。

しかし長州派閥の抵抗を受けて、このときは井上が大蔵大輔を辞職することで一応の決着を見ました。

欧化政策

井上はその後一旦は民間にあったものの、伊藤の後推しを受けて政府の職に復帰しました。

木戸孝允、大久保利通らが亡き後、伊藤が政権を担うようになると参議、外務卿を務めて幕末に日本が結ばされた不平等条約の改正の為として、帝国ホテル鹿鳴館の建設を推進しました。

井上馨

※鹿鳴館

殊にこの鹿鳴館が行き過ぎた欧化策と揶揄されることにもなり、服飾、作法など形ばかりの西洋風を装った滑稽な催しとして西洋人からも奇異な目で見られたとされています。

その後も伊藤が明治18年(1885年)に内閣総理大臣に就任すると、井上は外務大臣へと起用され日本における裁判に外国人の判事を任用するという、露骨に列強諸国におもねった条約改定案を進めようとしました。これには閣内からの反発も上がり、結果大臣を辞任することになりました。

西郷の評価

井上は、その後も明治21年(1888年)には黒田内閣で農商務大臣、明治25年(1892年)の第2次伊藤内閣で内務大臣、明治31年(1898年)の第3次伊藤内閣で大蔵大臣を務めました。

井上は明治42年(1909年)に盟友の伊藤がハルピンで凶弾に倒れた後も、西園寺公望や松方正義らと元老として君臨し、各方面への影響力を持ち続けました。

その後井上は大正4年(1915年)に79歳で天寿を全うしました。

西郷隆盛は生前、井上が三井財閥の最高顧問に就くなどの行動を特に快く思わなかったとされています。

しかし反面、西郷が西南戦争で命を落とした後も、井上は国家の舵を取りを続けました。ある種時代の「必要悪」だったとも言えるのかも知れません。

 

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