大久保利通の次男
牧野伸顕(まきののぶあき)は、維新三傑の一人として高名な大久保利通を父に持つ政治家です。
大久保の次男に生まれた牧野でしたが、その親族であった牧野家へ養子に出されたため牧野姓を名乗ることになりました。
牧野は父だけではなく、意外なことに伊藤博文の知己を得てその薫陶を受けた人物でした。明治・大正・昭和の時代を外交官、政治家として生きた牧野は、吉田茂の義理の父でもありその政治思想にも多大な影響を与えた人物でした。
伊藤博文との邂逅
牧野は1861年に鹿児島に生を受け、生後すぐに養子に出されたものの大久保家で育ちました。
1871年(明治4年)に岩倉具視を団長とした遣欧使節団に選ばれた牧野は共にアメリカに渡り、3年の遊学の後に帰国しました。
帰国後には東京帝国大学に進んだ牧野でしたが、1880年(明治13年)にこれを退学して外務省へ入り、官界生活をスタートさせました。
この時先ずロンドン大使館に配属され、ここで伊藤博文の知己を得ました。その後牧野は太政官権小書記官を務め、この時にも伊藤博文に従って北京を訪れその薫陶を受けたと伝えられています。
官界から政界へ
牧野は福井県や茨城県知事や、イタリア、オーストリアの公使を務め内政や外交の経験を積んでいきました。やがて第一次の西園寺政権で文部大臣に就任し、この時に事務教育の期間を4年間から6年間へと延長しました。
続く第二次西園寺政権では農商務大臣、第一次山本政権では外務大臣を務めるなど、主要閣僚を歴任しました。牧野自身の政治のスタンスは、薫陶を受けた伊藤博文やその後継たる西園寺公望に準じるもので親米英といえものでした。
自らの出身でもある旧薩摩藩の人脈に加えて、伊藤博文ら明治の元勲を通じた牧野のネットワークは政界だけでなく、官界や宮中にも大きな影響力を持つようになっていました。
パリ講和会議の全権大使
牧野は1919年(大正8年)には第一次世界大戦のパリ講和会議へ日本の次席全権大使として加わりました。
このときの責任者は西園寺公望でしたが、実効上は牧野が取りまとめていたものでいた。このとき女婿の吉田茂も随伴しており、この会議の席で牧野は、有名な人種的差別撤廃の案を日本代表として提出しました。
続く1921年(大正10年)に牧野は宮内大臣の職に就きましたが、一説にはこのとき総理大臣に推す声も上がっていたと言われています。
牧野はその後1925年(大正14年)には内大臣となり、その職を以後10年務めましたが次第に病によって容体が悪化していくことになります。
晩年の 牧野伸顕
牧野は1936年(昭和11年)に発生した2・26事件に際してはその真米英的な政治姿勢から命を狙われますが、辛くも難を逃れています。しかし牧野を標的とした襲撃計画はこれ以前にも複数回あったとされています。
牧野は太平洋戦争後、GHQの公職追放で鳩山一郎が自由党総裁を退くことになった際には、その後釜として名が挙げられたとも言われています。
実際には娘婿の吉田茂がその任にあたり、その岳父として牧野は吉田へのアドバイスを行いました。牧野の人に対する姿勢は、薫陶を受けた伊藤博文譲りとも言われ、人の話を遮らずによく聞いたとされています。
こうした逸話からは、実父である大久保利通が晩年はワンマンな権力者となったこと、娘婿の吉田茂も同様の傾向があったことと比較すると興味深いと感じられます。
牧野は太平洋戦争の敗戦から4年後の1949年、87歳でその生涯を終えました。晩年には時の政権の奏請に関わるほどの影響力を有した実力者でしたが、後の残るような財産などはほとんどなかったと伝えられています。
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