時は幕末、最後まで徳川幕府へ忠義を尽くし、薩摩藩・長州藩によって滅ぼされてしまった会津藩の悲劇は今日広く知られ、会津人の遺恨は今なお続いている(※)と言われています。
(※)昭和61年(1986年)に元長州藩の山口県萩市が、元会津藩の福島県会津若松市に対して「もう120年も経った(から、仲直りしよう)」と姉妹都市提携を申し入れたところ、「まだ120年しか経っておらぬ」と拒絶されたエピソードは有名ですね。
とかく戦さとは残酷なもので、多くの怒りと悲しみ、そして怨みを遺すものですが、かの明治維新は日本が近代国家として団結し、生まれ変わる上で越えねばならない試練でした。
御家や藩といった私益私情、そして滅ぼされた怨みを乗り越えて尽力した者たちによって、近代日本は弱肉強食の帝国主義時代を生き延びたのです。
今回はそんな一人、会津藩から海軍に入って活躍した角田秀松(つのだ ひでまつ)のエピソードを紹介したいと思います。
旺盛な向学心は海へ向かう
角田秀松は幕末の嘉永3年(1850年)2月12日、会津藩医・角田良智(よしとも)の次男として誕生しました。
父が蝦夷地(現:北海道)に赴任するとこれに同行、現地で南摩綱紀(なんま つなのり)に洋学を学んだり、上洛して大砲奉行の林安定(はやし やすさだ。権助)に洋式訓練を受けたり、旺盛な向学心をいかんなく発揮します。
会津藩というと、旧体制の象徴である幕府に最後まで忠義を尽くしたことから「旧態依然として新時代に乗り遅れ、淘汰されていった」などとイメージされがちですが、藩主の松平容保(まつだいら かたもり)はじめ、限られた条件下で最善の改革に努めていたのでした。
さて、新政府軍との戊辰戦争(慶応4・1868年1月~明治2・1869年5月)では鳥羽・伏見の戦いから会津戦争と歴戦。これまで学んだ洋式兵術をもって奮闘するも、明治元年(1868年)9月22日に会津藩が降伏。新政府の軍門に降ります。
「主君の降られた敵陣に弓は引けぬ……ここは我らも降るよりあるまい……」
会津藩は取り潰され、容保の嫡男・松平容大(かたはる)が会津より遠く斗南藩(現:青森県下北半島一帯)に存続を許されましたが、秀松は別の道を歩むことになりました。
「そなたはまだ若い。これから外界をよく見聞し、新たな時代を生き抜くのだ」
「父上……!」
これからの時代は世界と交わるため、航海術が役立つだろうと考えた秀松は、古川庄八(ふるかわ しょうはち)に航海術を学んでから商船の水夫となり、数年の内に船長代理を務めるほどに才覚を顕わします。
そんな秀松が海軍との関係を築き始めたのは、明治7年(1874年)に起きた「征台の役(せいたいのえき。台湾出兵)」でした。
復讐のため、海軍に入る
台湾出兵は明治4年(1871年)、台湾に漂着した宮古島の島民が台湾原住民に殺害された事件について、清(しん。中国大陸の近世王朝)国に責任を追及したところ
「その場所は台湾の中でも我が清国の主権が及ばず、国民でない現地人のしたことは一切関係ない(要約)」
などと回答したため、日本政府は犯罪捜査の名目で軍隊を派遣したのでした。
「角田殿のお陰で兵員物資の輸送が滞りなく進む。もし良かったら、海軍に来てくれまいか」
「……お国のためとあらば、喜んで参りましょう」
当時、陸軍中将だった西郷従道(さいごう つぐみち)に見込まれて海軍に入り、航海術に長けていたことから明治7年(1874年)11月には軍艦「雲揚(うんよう)」に乗り組んだ秀松ですが、その胸中は複雑だったようです。
(……何がお国のためなものか。実態は薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前=佐賀)藩閥による利権集団に過ぎんではないか。海軍に入って力を蓄え、いつか貴様ら藩閥政権を討ち滅ぼして会津の仇をとってくれよう!)
かくて腹に一物を抱えて海軍軍人となった秀松は、続く明治8年(1875年)に朝鮮半島の江華島(こうかとう)へ出兵(江華島事件)。陸戦隊を率いて敵前上陸を敢行、永宗城(えいそうじょう)砲台を占領する武勲を立てました。
海軍少尉に任官した秀松は、軍艦「清輝(せいき)」に乗り組んで明治10年(1877年)の西南戦争(せいなんせんそう。西郷隆盛ら旧薩摩藩士の叛乱鎮圧)に従軍。ここで同郷の旧会津藩士・雪下熊之助(ゆきした くまのすけ)少尉補の戦死を見届けることになります。
「角田よ……どうか、どうか……会津の、仇を!」
「皆まで申すな……解っておる」
まだ駆け出しの一士官に過ぎない秀松は、会津同胞の死をもって薩長藩閥への復讐心を新たにするのでした。
会津人で初めての常備艦隊司令長官に
その後、軍艦「孟春(もうしゅん)」乗り組みを経て「清輝」に航海長として復帰、日本海軍で初めてとなるヨーロッパ巡航に参加しました。それまで旺盛な向学心で習得してきた洋学の本場を巡り、さぞや知的好奇心が刺激されたことでしょう。
続いて軍艦「東(あづま)」副長、軍艦「扶桑(ふそう。初代)」乗り組みから一度陸上勤務となって水雷練習所副長、水雷局副長、長崎水雷営長、横須賀鎮守府水雷司令と水雷(水測=ソナーと魚雷)分野で活躍します。
再び海上に戻って軍艦「浪速(なにわ)」艦長を務めた後は佐世保の知港事(軍港の管理責任者)、海兵団(軍港警備や教育機関など)長を歴任し、日清戦争(明治27・1894年~同28・1895年)の前には海軍の中央機関である軍令部の第1局長に就任。戦時中は大本営幕僚にまで駆け上がりました。
「何だよ角田の野郎、会津の敗賊くずれのくせに……」
当時、海軍の上層部は戊辰戦争で官軍だった薩摩・長州・佐賀藩出身者が占めていましたが、そのハンディキャップを乗り越え、頭角を現した秀松は、いまだ苦境にあった会津人たちの希望となったのか、それとも「薩長の狗に成り下がった」と思われたのか、どうなんでしょうね。
(しかし、単なるおべっか使いだけでここまでの昇任を果たすのは難しいでしょうし、そもそも剛毅木訥で知られる会津人に、器用な処世術は似合いません)
何はともあれ秀松は活躍を続け、台湾総督府の海軍局長を経て明治28年(1895年)海軍少将に昇任。自分が海軍に入るきっかけとなった台湾の地で参謀副長(兼任)、軍務局海軍部長、海軍参謀長を歴任。
明治30年(1897年)からは日本に戻って佐世保鎮守府の予備艦隊司令官、呉鎮守府艦隊司令官、常備艦隊司令官を歴任して明治33年(1900年)海軍中将に昇任しました。
順調な出世の陰には会津人らしい地道な努力があり、とうぜん秀松は日々の任務に謀殺されたでしょうが、これまた会津人らしい強い忍耐力を発揮して乗り越えていきます。
さらに艦政本部(開発研究機関)部長、将官会議(重要事項の審議機関)議員を経て、常備艦隊司令長官に就任しました。
司令長官とは戦隊を束ねる司令官を束ねる役職で、薩摩・長州・佐賀藩以外の出身者が就任するのは秀松が史上初という快挙になります。
「やったぞ……ついにここまでやって来た!」
今や海軍の柱石として、一軍を率いる将となった秀松。薩長藩閥に一矢報いるには十分な権力を手にしましたが、その心境には少なからぬ変化があったようです。
エピローグ・大義のために私怨を乗り越える
その後、日露戦争(明治37・1904年~同38・1905年)時は対馬海峡の守りを固めるべく竹敷要港部の司令官を務めますが、強大なロシアに辛勝して「使命を果たした」と思ったのか、戦争の余韻も冷めやらぬ明治38年(1905年)12月13日、満55歳でこの世を去ったのでした。
「余は亡国の士なり、故国の滅亡は、薩長の為す所なり、余は当事心に誓て、其復讐を為さんと欲し、志を決して海軍に入りたり、然るに一たび海軍に入るに及びては、均しく、天皇陛下の軍人なれば、恩讐の観念は頓に消滅し、唯共に、陛下に対して身命を擲つを以て、軍人の本分と為すに至れり」
※「会津会 会報」大正7年(1918年)第12号より。
【意訳】
私は滅ぼされた会津の出身であり、滅ぼしたのは薩摩と長州である。私はかつて薩長に復讐しようと海軍に入ったが、いざ奉公している内、みな天皇陛下(その象徴される日本)の軍人であるという意識に目覚め、復讐の念も消えて、ひたすら祖国のため身命を惜しまず奉公することこそ軍人の本分と心得るに至ったのだ。
これは会津同郷の後輩である鈴木寅彦(すずき とらひこ)に語った言葉とされていますが、かつて薩長への復讐に燃えて海軍に入ったものの、いざ任務に臨めば困難につぐ困難の連続で、とても会津だ薩長だとこだわっている余裕はありませんでした。
やらねばやられる弱肉強食の帝国主義が渦巻くただ中にあって、日本人が一丸となって力を合わせ、ギリギリのところで欧米列強と渡り合っていた厳しい時代。
大義のために私怨を乗り越え、力を合わせた秀松たちの精神を、現代を生きる私たちも受け継いで行きたいものです。
※参考文献:
外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年1月
秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版社、2005年8月
福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年12月
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