時は幕末(江戸時代末期)。朝廷に権力を取り戻し、日本の植民地支配をたくらむ欧米列強の野望を阻止する尊皇攘夷(そんのうじょうい)の機運が沸き起こりました。
志士たちの思いは次第にエスカレートし、もはや「これ以上、徳川幕府に政権を任せておけない!」と倒幕運動に発展。全国各地で兵を挙げる者たちが現れました。
今まさに、日本が大きく変わろうとしている……その熱気が人々に与えた影響は大きく、中には信念もないまま衝動的に挙兵してしまった者も少なくなかったようです。
今回はそんな幕末の徒花(あだばな)とでも言うべき、真忠組(しんちゅうぐみ)のエピソードを紹介したいと思います。
ひなびた田舎漁村に激震走る……!
文久3年(1864年)11月12日(12月4日説も)、上総国山辺郡小関村(現:千葉県九十九里町)の旅館・大村屋に数十名の浪士たちが押しかけました。
「ここを我らが屯所(とんしょ。アジト)とする!」
それまで尊皇攘夷なんてどこ吹く風……そんなひなびた田舎漁村に、にわかに激震が走ります。
「いやいやお客様、いったい何をおっしゃいますやら……」
「うるせぇ!今や全国各地で沸き起こる尊皇攘夷の機運に、我らも乗ぜずば志士とは言えぬ!」
だったら自分の家でやってくれ、そもそも尊皇攘夷に立ち上がるからこそ志士なのであって、志士でありたいために機運(ブーム)に乗じるというのは、本末転倒もいいところ。
大村屋の主人が必死で止めるのも聞かず、浪士たちは瞬く間に旅館を占領。店先に
「真忠組義士旅館」
「救国救民館真忠組当分住所(当分の間、住所とする意)」
などと殴りg……もとい堂々大書した看板を掲げました。
そのネーミングは文字通り「真の忠義」を表わし、義士旅館としたのは、活動資金を調達するために旅館を経営しつつ、天下草莽の士(≒仲間入りする者)については無料で泊めてやるシステムだったのでしょうか。
(今やゴロツキどもの巣窟となってしまって、こんな所にまともな客が泊まりたがるものか……)
内心で嘆息する主人をよそに、ドヤ顔な浪士たちの尊皇攘夷が幕を開けたのでした。
真忠組のトップ・楠音次郎
さて、そんな浪士たちの首領は楠音次郎正光(くすのき おとじろうまさみつ)。文政9年(1826年)に楠主馬正之(しゅめまさゆき)の子として三河国(現:愛知県東部)に生まれ、御三家の一つ・尾張徳川家に仕えたものの、事情により脱藩して各地を流浪します。
嘉永6年(1853年)、28歳の時に下野国(現:栃木県)の名門である樋山(ひやま)家に養子入りして樋山民弥(たみや。一説に民部とも)と改名、野州烏山藩(現:栃木県那須烏山市)に仕えたものの、尊皇攘夷思想にかぶれたため追放されてしまいました。
虚々実々不争功(虚々実々のつまらぬ手柄にこだわらず)
真忠義士頗義勇(誠に忠義の志士、すこぶる奮い立つ)
一夜忽驚千里軍(一夜たちまち千里の軍≒欧米列強の侵略に驚き)
誠忠吹起太平国(誠忠を吹き起こして日本国を太平たらしめん)※決起に際して音次郎が詠んだ七言絶句。
よほど過激なことを口走っていたのか追われる身となってしまい、中川良助(なかがわ りょうすけ)と変名を使って江戸に潜伏、ほとぼりが冷めたであろう頃合いに上総国へと逃げ込み、寺子屋を開いて子供たちに読み書きそろばん&尊皇攘夷を教えていたと言います。
また黒部民之輔(くろべ たみのすけorみんのすけ)などの変名も使っており、とかく「名前や肩書の多いヤツにロクなのはいない」というお手本のような人生をたどっていたようです。
決起当時にどの名前を使っていたのかは諸説ありますが、ここでは便宜上、通りのよさげな楠音次郎で統一します。
「その方が、南北朝時代の忠臣・大楠公(だいなんこう。楠正成)と一緒でテンション上がるからな!」
音次郎を補佐する真忠組のナンバー2、3
もう一人の頭目は三浦帯刀有国(みうら たてわきありくに)。元の名は小口順之助(おぐち じゅんのすけ)、旗本の津田英次郎(つだ えいじろう)に仕えていたものの、諍いでも起こしたのか出奔。
国のため 民のためとて 捨てる身は
これぞ日本の 人のたましひ※三浦帯刀の辞世。
これまた人生をリセットしたかったのか名前を変えるに際して、坂東武者の名族であった三浦を称し、有国とは尊皇攘夷への思いから「国ありてこその自分」を意識したかったのでしょうか。
続く真忠組ナンバー3の頭目は、山内額太郎正直(やまのうち がくたろうまさただ)。これは先の2人とちょっと毛色が違い、東金薄島(現:千葉県東金市)で博徒(ばくと。ヤクザ)の親分をしており、真忠組の核となる数十名は、ほとんど彼の子分でした。
普通、こういう状況だと数を恃みにトップの座を要求しそうなものですが、もしかしたら尊皇攘夷の崇高な思想にコンプレックスがあって、楠音次郎と三浦帯刀に一歩譲っていたのかも知れません。
幕末の共産国家?真忠組が始めた理想政治
ともあれ、この三頭体制で始まった真忠組は「救国救民(国を救い、民を救う)」をスローガンに、九十九里浜一帯で独自の理想政治を展開しました。
「富める者は貧しい者に、施しをする義務がある!」
……という訳で、さっそく地元の富裕層から金銭食糧を巻き上げて、それを貧しい者たちに分け与えました。
「これからの時代は、もう武士だの町人だの百姓だのと言うことなく、一天万乗(※)の天皇陛下(みかど)が下に、みんな平等かつ公平であるべきだ!」
(※)いってんばんじょう。天下を一つに統べ治(しら)され、一万乗の戦車(古代の馬戦車)≒大軍をもって平和を守られる、天皇陛下のご聖徳を表わす言葉。
……という訳で、真忠組の支配下においてはすべての住民が身分に関係なく、誰でも苗字を公に名乗ることが義務づけられました。
「裁判も行うぞ!お前ら、今度からもめごとがあったら奉行所ではなく、我々に届け出るように!」
これまで、どちらかと言えば富裕層や有力者に有利な傾向があった訴訟ごとについても、真忠組がとり裁くようになってからは、貧困層や一般庶民にとっても公平(※真忠組調べ)な判決が出るようになったと言います。
まるでブルジョワジー(中産階級)を攻撃してプロレタリアート(労働者階級)に手厚くしようとした共産主義国家のようです。
「いいぞ!真忠組こそ、真の世直し運動だ!」
貧困層から人気を集めた真忠組は次第に勢力を拡大、同志の数も無宿者や人足(にんそく。日雇い労働者)、漁民や貧農など最大で200名ほどにも膨れ上がったそうです。
そうなると、さすがに大村屋だけでは手狭になったのか、長柄郡茂原村(現:千葉県茂原市)の妙光寺と、匝瑳郡八日市場村(現:千葉県匝瑳市)の福善寺にそれぞれ分営(出張所)を設置。
大村屋の総大将は楠音次郎、茂原村の大将は三浦帯刀、八日市場村の大将は山内額太郎がそれぞれ務め、このまま真忠組の理想政治が根づき、拡大していくかと思ったのですが……。
幕府軍に攻められ、1日で壊滅
そうは問屋が卸しませんでした。具体的には真忠組によって攻撃・搾取されたブルジョワジー、もとい地元の富裕層らが奉行所へ訴え出たのです。現実は厳しいのです。
「ご公儀を軽んじて天下の政(まつりごと)をもてあそび、泰平の秩序を乱す不埒者ども、断じて見過ごすわけには参らぬ!」
……というごく当然の成り行きで、明けて元治元年(1864年)1月17日、幕府は陸奥国福島藩(現:福島県福島市)・上総国一宮藩(現:千葉県長生郡一宮町)・下総国多古藩(現:同県香取郡多古町)・同国佐倉藩(現:同県佐倉市)から連合軍1,500ばかりを派遣。
※遠く福島藩が出張しているのは、近くに所領(飛び地)を持っていたためです。
「おのれ、最早これまでか……!」
戦闘は1日で決着がつき、真忠組はあっけなく壊滅。楠音次郎らは自刃して果て、三浦帯刀と山内額太郎らは捕縛され、約1ヶ月におよぶ取り調べと裁判(2月17日~3月15日)の結果、12名が獄門に処せられました。
【討死、または自刃した者】
真忠組首魁・楠音次郎
戸村次郎左衛門(とむら じろうざゑもん)
井関喜十郎(いぜき きじゅうろう)
浅井敬斉(あざい けいさい)
堀越和七(ほりごえ わしち)
澤田正二郎(さわだ しょうじろう)
深田清(ふかだ きよし)
矢野十郎(やの じゅうろう)
宮島七郎(みやじま しちろう)……など。【獄門に処せられた者】
三浦帯刀
山内額太郎
千葉源次郎(ちば げんじろう)
大木八郎(おおき はちろう)
首藤大九郎(すどう だいくろう)
斉藤市之助(さいとう いちのすけ)
大高泰助(おおたか たいすけ)
里見忠治郎(さとみ ちゅうじろう)
片梅若太郎(かたうめ わかたろう)
鎌形平蔵(かまがた へいぞう)
大網牛太郎(おおあみ ぎゅうたろう)
広瀬林太郎(ひろせ りんたろう)
余談ですが、彼らのほとんどは武士ではなかったそうで、ここに並んでいる苗字もほとんどが真忠組の政権下で名乗られた(≒新たに作られた)ものですから、それぞれの由来(ネーミングの動機)を考えてみると興味深いものです。
※千葉や里見と言ったご当地名族のものから、大網牛太郎なんて、いかにもな感じのものもありますね。
その後、事件の関係者として102の村から約3,000名の者が取り調べを受けたと言いますから、約1~2か月の短命政権であったとは言え、真忠組の与えた影響は小さくないものでした。
エピローグ
かくして尊皇攘夷の志に燃えながら、失敗に終わってしまった真忠組の顛末を紹介しましたが、彼らの敗因は、他団体のように大名家や公卿など、有力者の後ろ盾(コネ)を得られなかったことが大きいでしょう。
例えば新選組(しんせんぐみ)も京都の八木(やぎ)家を乗っ取るように居座りましたが、ほどなく京都守護職の会津藩預かりとなったからこそ(新政府軍との武力衝突によって壊滅するまでは)存続できたのです。
大義名分も経済基盤もないまま、まさにカネなし、コネなし、未経験の素人集団が衝動的に理想を掲げて突っ走った結果、富裕層の支持を失って破綻してしまいました。
音次郎ら真忠組の志士たちは地元の九十九里町に葬られ、今も人々の暮らしを見守っています。
※参考:
荒川法勝 編『千葉県妖怪奇異史談』暁印書館、1997年4月
大網白里市/大網白里市デジタル博物館
東金市/東金市デジタル歴史館
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