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座敷牢の実態はどのようなものだったのか? 「精神病患者を強制監禁、糞尿垂れ流し」

座敷牢

座敷牢の実態はどのようなものだったのか?

座敷牢 イメージ画像

座敷牢とは犯罪者を収容するための監獄とは異なり、家の一角・離れ・土蔵などの人目につかない場所に部屋をつくり、そこに精神病者などを監禁する所である。

江戸時代において西洋医学が徐々に広まっていく中で「心の病」に関しては、まだ狐憑きや祟りのせいだという認識が主であった。

治療を受けられた人はごく一部であり、もし身内からそのような精神疾患を患う人が出た場合は「身内で解決しないといけない」「外に出すことは恥ずかしい家の恥」という意識が根強かった。

精神病者は神社仏閣に預けられ「滝打ち・まじない・祈祷」を受けたりした。

そして精神病者を座敷牢に監禁する際、場合によっては手枷や足枷を使用することもあり、これは脱走や危険行為などを防ぐためであった。

明治時代にはヨーロッパの精神医学の影響により、脳病や神経病の患者とされるも、やはり癲狂院(てんきょういん : 現・精神科病院)などに隔離されて閉じ込められたりした。

相馬事件の影響

座敷牢の実態はどのようなものだったのか?

画像 : 相馬誠胤の肖像写真

明治年間に起こった「相馬事件」とは、旧中村藩主の相馬誠胤(ともたね)が精神病者とされ座敷牢に監禁された事件である。

明治16年(1883年)旧家臣の錦織剛清(にしごり たけきよ)は、これを家令・志賀直道らによる財産目当ての不当な監禁として訴え、法廷闘争となった。

誠胤は24歳頃から精神が変調し始め、ある日囲碁の勝敗を巡り槍を持ち出す騒ぎを起こし監禁された。

その後誠胤は、東京府癲狂院などの病院に入院させられ診断を受けるも、その診断結果も人により判断が分かれ混乱の度合いが増した。(※現代では誠胤は統合失調症だったと推定されている

剛清は誠胤を病院から連れ出したが取り押さえられ、世間からこの事件は注目を集めた。剛清を支持する声も多かったという。

誠胤は結局、明治25年(1892年)に病死するが、剛清はこれを毒殺だと訴えたため遺体の解剖が行われた。しかし証拠は得られず逆に誣告罪で訴えられ、明治27年(1894年)に有罪となった。

この事件がきっかけとなり、明治33年(1900年)に「精神病者監護法」が施行された。

これは精神病者の治療・看護体制を取り決めるもので、初めて精神病者の人達の扱いがが法律に定められたのである。不法監禁を防ぎ、もしそういった人達を保護する際は、医師の診断書を添え警察に届け出るというものであった。

しかし実際は、家族が座敷牢を作り行政庁から許可を得てから監置し、これを警察が管理するというものであった。

言うなれば座敷牢の合法化であり、精神病者の治療を行うというものでは無かった。

私宅監置とは

当時は精神科病院は明らかに不足しており、また座敷牢の合法化ともいえる「私宅監置」が、精神病者監護法の中で規定された。

病院に入院出来たのはごく一部の富裕層のみであり、ほとんどの人は私宅監置を行った。さもなくば神社仏閣で祈祷などの民間療法を利用した。

また薬で有名な富山県では民間薬として「猿の頭蓋骨」や「狐の舌」などの売薬があったとされ、また中には墓から死体の骨を盗み浸煎して服用させたこともあったという。(効果は不明)

登録された精神病者の問題行動の内容は「徘徊・会話不能・奇声・糞便を塗りたくる」など様々であり、他にも盗みをしたり他人や家族に暴力をふるうという人もいた。

最悪なケースでは殺人を犯してしまう人もいたが、当時は精神病者が犯罪を犯したとしても「心神喪失」のせいとされ罰則は無く、そのまま私宅監置が続けられたという。

私宅監置は経済的な負担はもちろん、監護にあたる家族も心身ともに消耗し、最終的には破産してしまう人も少なくなかった。

私宅監置の実状

この私宅監置の実際の状況を調べた人物がいた。

座敷牢の実態はどのようなものだったのか?

画像 : 呉 秀三

東京帝国大学精神病学教授の呉秀三(くれ しゅうぞう)は、明治43年(1910年)〜大正5年(1916年)にかけ日本各地に助手などを派遣し、大正7年(1918年)にその視察してきた精神病者の実態をまとめた報告書として「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」を内務省に提出した。

呉秀三は視察した私宅監置の実態は悲惨なものであるとし、速やかにこれを廃止すべきだと訴え、また公費で入院出来る官公立病院の設置を強く主張した。

ではその状況とはどのようなものだったのか? 報告書の中の内容を簡略してあげてみる。

〔私宅監置の様子〕

報告書の中では、母屋内に監置室を設け目が届きやすく、比較的良好な環境である例が存在する。

一方、目の届きにくい一角や自宅の離れや小屋などを監置室とし設置した室内の場合。

・採光も風通りも無く地面は湿気ておりカビ臭い。
・防寒防暑対策などが一切されていない。
・室内が、立つことや移動すらも困難な広さである。
・食事が不十分である。
・服は不衛生なものをまとっているか裸で過ごしている(本人が服を拒絶している場合もある)。
・入浴・運動が一切無く、室内から1度も出ていない。
・掃除がされていない。
・トイレは板に穴を開け、その下に甕などを置いたものを設けるも排泄物の処理がされていない、またはトイレが無く垂れ流し状態であり悪臭が酷い。

などといった様子も多数存在しており、動物の檻といった印象も受ける。

栄養・健康状態は個人で違い、また静かに横たわっている人もいれば、時々1人で笑い出す人などもいたとされる。

・36歳被監置者の様子の具体例

かなり貧しい農家で、実母が世話をしている。監置の理由は、当人はうつ状態で引きこもりがちだったが、やがて他人に噛み付く、暴行する、物を壊すなどの異常行動があらわれたためである。

監置室の環境は最低最悪であり、広さは幅約1.5メートル、奥行き約1.8メートルと極めて狭い。(天井は無いと記されており、おそらく隣接している土蔵の庇を利用していると思われる)

掃除や入浴は一切されず、糞尿は垂れ流し状態で、腐った握り飯が転がっていた。放置された状態にありあまりの酷さに母親に忠告したほどであった。

精神病者達のその後は不明である。

監置室のつくりや衛生状態は、法の規定に従っている所とそうで無い所があり、また監置を管理する警察の巡回などが実際にされていたかも疑わしい。そして世話をする家族の精神病者に対する複雑な心境、家族の精神病に関する知識の乏しさがあった。

また他の情報としては、家庭の生活レベルや主に世話をしている人などが記されいる。

私宅監置の廃止

呉秀三は

わが国十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし

という有名な言葉を残した。

報告書を受けて大正8年(1919年)に「精神病院法」が制定され、都道府県に公立精神科病院の設置が命じられたが、財政難からほとんど進まなかった。

結局は昭和25年(1950年)の「精神衛生法」の施行までに全国で8か所設立されただけであった。

しかし精神衛生法の施行により精神病者監護法と精神病院法は廃止され「精神病者に必要なのは監禁では無く、治療である」ということに重きが置かれ、日本本土では私宅監置は禁止された。

沖縄県では昭和47年(1972年)の本土復帰に伴い禁止された。

令和に入ってからも、家族が精神病者を自宅に監禁していたという事件が多数明るみになった。

実際には社会にまだ根強く残っている問題であり、社会や行政、医療全体でより連携し、継続して解決していかなければならない深刻な問題である。

参考文献 :
呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況

 

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