文学界には数多くの文豪たちがいますが、樋口一葉は女性ならではの視点で不朽の名作を世に打ち出した女流作家として有名です。
作品を読んだことが無い方でも、5千円札の肖像画の人物として知っている方も多いでしょう。
今回の記事では、一葉が小説家を目指すきっかけになった家庭環境、そしてどのように恋を経験し、その影響を彼女の作品にどのように反映させたのかを詳しく見ていきます。
裕福な家庭に生まれた一葉。しかし父の病死で人生が一変
樋口一葉は1872年に現在の東京都千代田区で、役人の子どもとして生まれました。
父が副業で高利貸をしていたため、裕福な子ども時代を過ごします。一葉は小柄で色が黒く、赤毛の少女だったと言われています。
子ども頃から頭が良かった一葉は、11歳のとき小学校高等科を首席で卒業。
しかし「女に学問は必要ない」という母の方針で、それ以降学校に通うことはありませんでした。
そんな一葉の少女時代が終わりを告げたのは、1889年、一葉17歳のときのこと。
父親が病死してから一葉の人生は一変します。
「お金がない!」17歳で家計を支えることになった少女の極貧生活
父親が莫大な借金を残して無くなったため、一葉が一家を養うことになりました。
針仕事や洗い張り(着物の洗濯)、雑貨店を経営するもうまくいきません。
和歌を教える歌塾を開設しようとするものの、資金が足りず断念。
そんな中「小説を書けばたくさん原稿料がもらえる」と知り、小説家になることを決意したと言われています。
もし、彼女の経済状況が裕福だったら有名な「たけくらべ」は存在しなかったのかもしれません。
ちなみに一葉には「吾輩はねこである」で有名な夏目漱石との縁談の話もあったと言われています。(※漱石の兄との説もある)
しかし、樋口家があまりにも貧乏過ぎたためか、夏目家が破談にしてしまいました。
樋口家が相当な財産難だったことがわかる悲しいエピソードです。
「一葉」というペンネームも、達磨大師が一葉の葦の葉に乗って揚子江を渡った、という伝説から来ています。
「だるまさんには足が無い、私にはおアシ(お金)が無い…流れにさすらうところも似ているわ…」と共感して自身のペンネームにしたと言われています。
そんなお金で生涯苦労した彼女が、お札の肖像画になるとは皮肉なものです。
イケメン小説家に一目ぼれ。生涯で一度きりの恋愛の行方は?
そんなお金の神様には愛されなかった一葉ですが、彼女を小説家として育て、支え、そして愛してくれた男性がいました。
お相手は半井桃水、一葉の小説の師匠です。
「小説を書いて家計を支えよう」と決意した一葉は妹の友人のつてで、当時東京朝日新聞の小説記者だった半井桃水に面会します。
そこで当時19歳だった一葉は、31歳のイケメン小説家に一目惚れ。
一葉はあまりにも緊張してほとんど口をきくことができませんでしたが、後日あらためて「小説の書き方を教えてほしい」と申し込みをして、桃水に師事することになります。
その後二人の思いは通じ合い、恋愛関係に発展。
一葉が「明日相談しに行きたいのです」と手紙を出すと、入れ違いに「明日来てほしい」と桃水から手紙が届き「こんなにも気持ちが通じ合うなんて…」とドキドキした、なんてエピソードもあります。
しかし1年余りたったころ、一葉と桃水の恋愛は唐突に終わりを告げます。
桃水の周りには常に女性関係の噂が絶えず、一葉の家族や周りの友人たちは心配して「桃水との交際は止めた方がよい」と忠告をするようになりました。
悩んだ挙句、一葉は桃水と絶交することを決意。
当時は女性が職業を持つことが当たり前ではなかったため、20歳の女性が生半可な気持ちで家族を養っていくことはできません。
自分の恋愛ではなく、自身と家族を食べさせていくことを最優先に考えた結果でした。
桃水との恋愛が終わった後、一葉は作家として万人の恋人になろうと考えます。
その後「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」を次々に発表。
これらの名作はわずか1年半の間に立て続けに発表され「奇跡の14か月」とも呼ばれました。
その後、一葉は若き日の苦労がたたり24歳でこの世を去りますが、晩年「苦しく、憎たらしく、憂欝で、悩ましく、悲しく、寂しく、恨めしい恋こそが究極の恋なのです」といった内容の日記を遺しています。
亡くなる間際まで一葉の心には、桃水への恋心が消えずに残っていたのでしょう。
おわりに
生涯苦労し続けた一葉の恋愛模様を追ってきましたが、彼女の深い感受性と情熱が作品に大きく影響を与えてきたことがよく分かります。
貧乏や困難な状況にあっても、一葉が綴る言葉はその情熱と愛情で溢れていることは間違いありません。
今後彼女の作品を読むときには、ぜひその背後にある生涯や恋愛の深さを感じ取ってみてはいかがでしょうか。
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