江戸時代の男性上位という概念は間違い?

画像:天保年間の深川佐賀町の路地と長屋の再現(江戸深川資料館)wiki.c
一般的に、江戸時代は男女間の格差が顕著になった時代とされている。
これは「家父長制」が社会の基本とされ、そのもとで家を担う男性と、家を代表できない女性が明確に分けられ、女性は男性に従う立場に置かれていた、という考えに基づくものである。
離婚に関しても
・江戸時代の女性には離婚の権利が認められていなかった。
・夫やその親族に気に入られなければ、理由を問わず一方的に離縁されることもあった。
・たとえ夫に非があった場合でも、妻の側から離縁を申し出ることは原則として許されていなかった。
このように、江戸時代の女性の立場は男性によって抑圧されており、自らの主張を述べることは困難であったと考えられてきた。
実際、江戸時代には秩序を重んじ、上下関係や礼節を大切にする社会が築かれていた。
その社会安定を支えた思想哲学は「儒教」と「道教」だったが、幕府は特に「儒教」、中でも「朱子学」を重んじた。
「規律・統制・秩序」を重んじる儒教の考えは、幕藩体制の中で生きる武士階級に特に大きな影響を与えた。
一方で、『論語』が出版物としてヒットしたり、寺子屋で教えられたりすることで、庶民にもその思想は広がっていった。

画像:貝原益軒肖像(1700年頃)public domain
儒学者の貝原益軒が記した『和俗童子訓』には、当時の女性観について次のように記されている。
「いい女とは、主人や舅姑に慎みをもって仕える。子どもを産める。男の言うことを何でも聞く」。また、「悪い女とは、子どもを産めない。悪い病気になる。おしゃべりが過ぎる」
このような考えは、現代では到底受け入れられないものであるが、これが当時の儒教的価値観であった。
ところが近年になって、実際にはかなり異なっていたことが明らかになってきている。
今回はその違いを庶民階級、すなわち「江戸町人たちの恋愛」というテーマに絞ってお話ししよう。
武家や上級商家の子女は「原則恋愛禁止」

画像:鈴木春信筆の浮世絵。上層商家の娘(イメージ)public domain
江戸時代は、建前は秩序を重んじる社会だったので、原則として自由恋愛は禁止されていた。
特に武家や商家の上層では、結婚相手は「身分が同格」であることが基本で、親が決めた相手と結婚するのが原則だった。
そのため、婚儀の当日まで相手の顔すら知らないこともあった。
彼らは、家父長制度の影響を最も強く受けた身分層であったのだ。
したがって、映画やドラマでよく描かれるような、未婚の男女がカップルで仲良く町を闊歩するというのは、基本的にあり得ないことだった。
武家や商家の息子や娘にとって、「誰かと会っている」などという変な噂が立てば、良縁に悪影響を及ぼし、実家に大きな不利益をもたらすことになったのである。
女性への恋の伝達手段はラブレターだった

画像:喜多川歌麿筆の浮世絵。恋する男女(イメージ)public domain
とはいえどんな時代であっても、ひと目惚れをしてしまったり、いつの間にか恋仲になってしまうことは、男女の常である。
武家や商家と比べ、締め付けのゆるやかな町人などの庶民階級では、自由恋愛から結婚に至るケースも珍しくなかった。
町人の若者が町娘に想いを寄せた際には、付文(つけぶみ)、つまり「恋文=ラブレター」を送るのが一般的な手段とされていた。
渡し方にもさまざまな工夫があり、知人を通じて手紙を届けるだけでなく、偶然を装って娘に近づき、そっと袖の袂に忍ばせるといった手法も取られていた。
もっとも、恋文を受け取ったものの、娘のほうが相手のことをよく知らない、といったケースも多かったという。
だからこそ、手紙の内容が何よりも重視された。
恋が実るかどうかは、その一通に込められた言葉次第だったのである。

画像:鈴木春信筆の浮世絵。恋文を読む女性(イメージ)public domain
現代では、ラブレターで想いを伝えるという方法は、もはや昔話のように感じられるかもしれない。
直接会って告白したり、LINEなどのメッセージアプリを使うのが一般的である。
しかし、恋の行方が手紙に託されていた江戸時代では、文章で気持ちを伝えるのが苦手な若者が、代書屋に執筆を依頼することも多く、そのような商売が繁盛したという。
また、『艶書文の枝折』や『恋の文づくし』などの、恋文の書き方を指南するハウツー本もヒットしたといわれている。
江戸庶民の恋愛主導権は女性にあった

画像:鈴木春信筆の浮世絵。縁台で寛ぐ女性(イメージ)public domain
やや話は脱線するが、ここで江戸時代の男女比に目を向けてみたい。
というのも、男性が女性にラブレターを送っていた背景には、この男女比の偏りが深く関わっている。
江戸時代中期、日本全体の人口はおよそ3,000万人だったと推定されている。そのうち約100万人が江戸に暮らしていた。
では、その100万人のうち、町人はどれほどの数を占めていたのだろうか。
江戸町奉行所の詳細な調査によると、1722年の時点で約48万人が町人だったとされる。
さらに男女の比率を見ると、男性は約31万人(65%)、女性は約17万人(35%)で、男性がはるかに上回っていた。
つまり、江戸の町は男性のほうが圧倒的に多く、女性の存在はひときわ貴重だったのである。
こうした事情から、恋愛の主導権を握っていたのは当然ながら女性だった。
男性は意中の女性に恋文をしたため、ただただ色よい返事を待つしかなかったのである。

画像:鈴木春信筆の浮世絵。くちづけをする男女(イメージ)public domain
町人女性の中には、デートの誘いやプロポーズといった恋愛に積極的な姿勢を示す者も見られ、交際が始まっても愛情が冷めれば、たいていは女性のほうから別れを告げていたとされる。
また、女性の再婚も一般的に行われており、離縁歴があることは必ずしも不利にはならなかった。
むしろ、人生経験の豊富さが魅力と受け取られることもあったという。
のちに女性の純潔が尊ばれるようになったのは、明治時代以降、キリスト教的な価値観が浸透してからのことである。
ちなみに、江戸時代の初婚年齢はおおむね10代半ばから後半、遅くとも19歳には結婚していたとされる。
これは、当時の平均寿命が30代から40代と短かったことを踏まえれば、理にかなった年齢設定といえるだろう。
もちろん、なかには90歳近くまで長生きする人もいたが、多くは50歳前後で生涯を終えていた。
特に流行病にかかりやすい江戸などの都市部では、その傾向が顕著であった。

鈴木春信筆の浮世絵。雪道を歩くカップル(イメージ)public domain
そんな時代背景もあり、江戸の町民たち、特に女性は独身時代に自由奔放な恋愛を楽しんでいたようだ。
流行りの着物を着こなして、紅の口紅をさした「小意気」な彼女たちの姿が目に浮かぶようである。
※参考文献
日本史深堀講座編 『みてきたようによくわかる蔦屋重三郎と江戸の風俗』 青春出版社
樋口清之著 『もう一つの歴史をつくった女たち』 ごま書房新社
網野善彦著 『日本の歴史をよみなおす』 ちくま学芸文庫
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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