歴史研究の分野には、人々の衣食住や仕事、悩みなど、日々の暮らしに焦点を当てて過去を読み解く「日常史」と呼ばれる領域がある。
しかし、こうした日常の歴史を明らかにする研究は決して容易ではない。
その理由は、まとまった資料の少なさである。
日本は寺子屋があったため識字率が高く文字資料はそれなりに残っているが、日頃何を食べて誰と遊んだかなど、書き残されている資料は少ない。当然のことだが、日頃の人々の関心は歴史的な大事件である。
そんな中、幕末の生活を具体的に伝える貴重な記録を残した人物がいる。
忍藩の藩士、尾崎石城(おざきせきじょう 1829–1876)である。
石城は武蔵国埼玉郡の忍藩に仕えた武士で、もとは御馬廻役百石の中級武士だった。
しかし藩政について上書して意見を述べたことから蟄居を命じられ、十人扶持の下級武士の身分へと落とされる。
その後、文久元年(1861)から翌2年(1862)にかけて、石城は日々の暮らしを絵入りの日記として記録した。
通称「石城日記」と呼ばれるこの日記は、約178日にわたる生活の様子を克明に伝えている。
そこに描かれているのは政治や戦乱ではなく、食事、酒宴、友人との付き合いといったごくありふれた日常である。
だが、まさにその日常の記録こそが、幕末の武士の暮らしを知る貴重な歴史資料となっている。
よく食べていた「三白」たまに食べていた肉

画像:『成形図説』より大根の図 匿名 CC BY-SA 4.0
江戸人は、三つの白い食べ物を日常的に食べていた。
大根、豆腐、白米である。
この三つは現代の日本人にもなじみ深いが、幕末当時の食生活は今ほどバラエティに富んでいない。
そのため、三白は石城の日記にかなりの頻度で登場する。
大根は、実は日本列島にもともと自生していた植物ではなく、地中海または中央アジアの地域が原産とされている。
日本に定着した時期はかなり早く、『日本書紀』の記載からすでに奈良時代には定着していたことがわかる。
大根は保存が利き、消化もよく栄養価も高い食材である。
貝原益軒も『養生訓』で常食を勧めており、江戸の人々にとって重要な食材だったことがうかがえる。
『石城日記』を見ると大根以外の野菜類もレギュラーが大体決まっており、蕪(かぶ)、牛蒡(ごぼう)、葱(ねぎ)、茄子、里芋が食卓に出てくることが多い。
豆腐も石城日記によく登場する。

画像 : 豆腐 イメージ
冷やっこがメインだったり湯豆腐がメインだったり、こちらも登場頻度はかなり高い。
石城は酒飲みだったので、肴としてもちょうどよかったのだろう。
江戸中期の 天明2年(1782年)には『豆腐百珍』という料理本が出版されており、同書には文字通りに100種類の豆腐料理のレシピが載っている。
豆腐も江戸庶民にとって重要な食べ物だったようだ。

画像:『豆腐百珍』より「絶品」の項 public domain
最後に白米だが、石城の日記には「白米を食べた」という明確な記述は確認できない。
だが、三食全部お茶漬けだった日もあることから、ご飯=白米を食べていたことは確かであろう。
当時は炊飯が重労働だったため、朝のうちにご飯を炊いてしまい、時間が経って冷めたらお茶漬けにして食べていたようだ。
白米が食卓に並ぶのは当然の事なので、わざわざ書かなかったようである。
また、意外なところとして石城は、時折「肉」を食べている。
マグロや鱈(たら)、貝類など海の幸が食卓に並ぶのは想像しやすいが、鴨汁などの肉料理も時折登場する。
一般には、仏教の不殺生の教えから明治以前の日本人は肉を食べなかったと説明されることが多い。
しかし実際には「薬食い」と称して滋養のために肉を口にする習慣があり、猪や鹿、鴨などが、ある程度食べられていた。
下級武士の石城でもたまに食べていたのだから、薬食いは日常食ではないにせよ、そこまで希少でもなかったのだろう。
酒呑みな江戸っ子

画像:歌川国芳『大酒の大会』/都立中央図書館特別文庫室所蔵 public domain
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉を、耳にしたことがある方も多いだろう。
木造家屋が密集していた江戸では火事が頻発し、人々の気質の荒さもまたよく語られてきた。
その背景の一つとして、当時の人々の酒との付き合い方が挙げられる。江戸では酒を飲む機会が多く、朝の一杯を縁起物として口にする習慣もあったといわれる。
仕事の合間や帰宅後の風呂上がり、晩酌など、一日に何度も酒を飲む者も珍しくなかったのだ。
当時の酒は現在より度数が低かったとはいえ、一日に五合ほど飲む人もいたとされ、町には常にほろ酔いの者が少なくなかったようである。
石城もかなりの酒好きだったようで、日記には酒宴の場面がたびたび描かれている。
妹夫婦や友人たちと行き来しながら、酒を酌み交わす様子が記されており、そこからは幕末の武士の日常的な交友関係もうかがえる。
江戸には酒好きが多く、大食い大会と並んで大酒飲みの競い合いもたびたび開かれていた。
他の記録では、文化14年(1817)に行われた万八楼の「大飲大食会」で、38歳の町人・鯉屋利兵衛が1斗9升5合もの酒を飲んだと伝えられている。現在の量に換算するとおよそ35リットルにあたる。
さすがの利兵衛もその後は酔いつぶれ、目を覚ましたあと茶碗の水を17杯も飲んだという。
教科書では「士農工商」という身分制度が強調されるが、日記を見るかぎり少なくとも日常生活の場面では、人々の関係はそれほど硬直したものではなかったようにも見える。
『石城日記』は大事件を記した史料ではないが、こうした日常の記録は当時の社会の実像を伝える貴重な歴史資料と言えるだろう。
参考文献:
大岡 敏昭『武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景』
杉浦日向子『一日江戸人』
文 / ニコ・トスカーニ 校正 / 草の実堂編集部

























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