春日局は江戸時代の女性だが、その名を知るものは多い。
徳川2代将軍・徳川秀忠の子である竹千代の乳母でありながら、竹千代よりも弟の国松を溺愛する将軍夫妻に対抗し、見事に竹千代を3代将軍・徳川家光として育て上げた女性。そして、大奥を組織的に整備して、その実権を握った女性。
転落した人生から一転、権力の頂点まで上りつめた春日局は、稀代の策略家だったのか?
激動の日々
※春日局
春日局とは、竹千代が将軍となった後に朝廷より下賜された称号であり、本名は「斎藤福(さいとうふく)」という。関ヶ原の合戦より遡ること約20年前、1579年(天正7年)に斎藤利三の娘として生まれた。斎藤利三は明智光秀の重臣であり、本能寺の変による山崎の戦いで羽柴秀吉軍に敗北する。父は処刑され、兄弟とも散り散りになった福は、縁戚を頼り流浪の日々を送った。やがて、母方の稲葉家に落ち着くことになり、その間に公家にとって必要な教養を身につけたといわれる。
成人後は、小早川秀秋の家臣、稲葉正成の妻となった。稲葉正成は戦場ヶ原の戦いの際に主君・小早川秀秋と共に小早川軍を東軍に寝返らせている。しかし、その後に正成と小早川秀秋は不和となり、正成は浪人となった。父に続き、夫までもが主君を失うという人生になったのだ。
そこに転機が訪れたのは、正成と二人、京都にいたときのことであった。
将軍家の乳母へ
※稲葉正成
将軍家が乳母を募っていることを知ったのである。
このときにすでに2代将軍・徳川秀忠は4人の娘と、1人の息子をもうけていたが、嫡男であった長丸はわずか10ヶ月で夭逝していた。そのため、次男の竹千代が生まれると嫡子なる。つまり、生まれながらにして、次期将軍の座は竹千代のものであるように思われた。
しかし、乳母になるための条件は、家族と離れて単身、江戸城にあがらないといけない。さらに、希望者は福だけではない。どのようなやりとりがあったかは不明だが、福は夫の正成と正式に離縁、長男の稲葉正勝とともに江戸に向かうと、見事に採用された。採用の理由として、福の家柄や公家並の教養、元夫である稲葉正成の戦功が大きかったといわれる。
息子も家光の小姓となったが、これで母子は完全に別れ別れの人生を歩むことになった。
正室お江との確執
※崇源院(お江)像
さて、乳母となってからの逸話は有名である。
2004年にフジテレビ系で放送されたドラマ「大奥~第一章~」では、徳川秀忠と正室であるお江(ごう)は、竹千代よりも弟の国松(後の徳川忠長)を溺愛しており、福は竹千代を守り、将軍の座に就けることを決心する。その過程において、竹千代と国松の扱いの差や、福とお江との確執などいかにもドラマらしいエピソードで盛り上げているが、実際にはかなりの部分が後世の創作だったようである。
何しろ、将軍家においてそのような記録が残るはずもなく、外部に事細かに情報が漏洩していたとは考えにくい。それよりも、竹千代が生来、虚弱体質で内向的な性格だったのに対し、国松は健康で明るい性格だったという。このことから、「竹千代が嫡男であるにもかかわらず、国松が跡取りの座を狙う」という構図を当てはめるのにピッタリだったはずだ。娯楽要素を盛り込むために話を大きくしたと考えたほうがいい。
竹千代、将軍へ
※徳川家光
お江との「女の戦い」があったのかは別として、福が竹千代を溺愛していたのは間違いないようだ。幼い竹千代に、もう会えない自分の子たちの姿を重ねたからかもしれない。
竹千代の虚弱体質の原因のひとつが「食の好き嫌いが多かった」ことだといわれている。ただでさえ、江戸時代は肉を口にする習慣もなく、栄養的には偏りのある食文化。さらに好き嫌いがあるというなら、確かに力も出ないだろう。
そこで、福は白米に工夫をした。ただの白米だけではなく、赤飯、麦飯、栗飯などの数種を用意させ、そのなかから好きなものを竹千代に選ばせるという方法をとったのである。なんとも贅沢な話だが、これにより竹千代の偏食は治ったという。
もうひとつ有名なエピソードとして、秀忠とお江が年長者である竹千代よりも、国松を次期将軍にしようとしていることを憂慮した福が、当時駿府で隠居していた家康に直訴した話がある。長幼の序により、竹千代こそ次期将軍であると確定してもらうためだった。しかし、この話も近年では後世の創作であるというのが一般的となっている。
春日局
やがて竹千代が徳川家光と改名し、将軍職に就くと、福もその権力を増した。とはいえ、家光からの信頼は絶大であり、「将軍様御局」となってお江の下で大奥を取り仕切るようになった。お江の没後は、家光の側室を探しては大奥へ入れることに熱心だったが、一方で家光と正室・鷹司孝子が不仲になると、大奥の実権は完全に福に集中した。
さらに家光とともに御所へ訪れる際には、福が武家の娘という身分では御所へ入る資格を有していなかったために、公家と縁組まで行い「春日局」の称号を得ることとなった。
残る史料によれば、離縁した稲葉家を含めた近親者が出世していたりと、権力を使った点も見付かるが、乱用していたとまではいえない。また、大奥を取りまとめるために厳しい態度で公務に臨んでいたとされるが、一説では老中をも上回る権力者であったというから、これも仕方なかろう。
すべては家光への愛情の深さゆえに手に入れた権力であり、結果論である。彼女自身が策略家であったという肯定的証拠はない。
最後に
春日局がどこまでその権力を私的に利用したのかは推測しかできない。
しかし、辞世の句では「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」と詠んでおり、「仏の教えにより煩悩にまみれたこの俗世から、西に沈む月とともにやっと解放される」というような内容である。煩悩、つまり、権力や地位などのしがらみから解放される喜びを残したということは、彼女にとって権力よりも家光のことだけが生きる目的となっていたのだ。
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