江戸時代

江戸の人々を悪から救う「火付盗賊改・長谷川平蔵」

知ってのとおり、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」では、巨悪を次々と取り締まる「鬼の平蔵」として活躍した。

しかし、実際の平蔵は、江戸で起こる窃盗などの日常的な犯罪にも多く関わっていた。

長谷川平蔵とは、どのような人物だったのか。

天明の打ちこわし

長谷川平蔵

天明7年(1787年)5月20日、米価高等に苦しむ人々が江戸中の米屋を襲った。前代未聞の騒動、「天明の打ちこわし」である。

大阪に端を発したこの騒動は、将軍のお膝元である江戸にまで及んだ。当初は町奉行が鎮圧に乗り出す。しかし、通常の警察組織である町奉行では、一説に5,000人ともいわれる群集にまったく歯が立たない。

三日後、幕府はついに軍事力で鎮圧に乗り出す。この鎮圧部隊を率いたのが長谷川平蔵であった。出動した平蔵たちは暴れる者をめし捉え、打ちこわしの鎮圧に成功する。

しかし、その後も江戸の治安は一向に回復しない。そこで強盗や殺人などの凶悪犯罪を取り締まるための特別警察が町奉行所以外に設けられていた。そのトップである「火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)」に抜擢されたのが、打ちこわしの鎮圧で功績を挙げた長谷川平蔵である。当時の記録には平蔵が膨大な数の事件を扱ったことが記されているが、なかでも多いのはスリや盗人といった事件だった。

無宿人と天明の飢饉

長谷川平蔵

しかし、その背景にはある事情があった。

そうした犯人の多くが、定職や住まいのない「無宿人(むしゅくにん)」と呼ばれる人だったのだ。この当時、火付盗賊改が扱った犯罪のうち、無宿人は全体の七割に上っていたという。無宿人のなかには江戸に流れてきた人たちが多く含まれていた。その背景には、日本を襲った大規模な災害の影響があった。

天明3年(1783年)7月、信州の浅間山が大噴火を起し、降り続いた火山灰が関東一円の農作物の収穫に深刻な被害を与え、そこに冷害が追い討ちをかける。そして、近世最大の飢饉「天明の飢饉」が起こったのだ。

食べるものを失った農村では悲惨を極め、記録によれば飢えや疫病での死者が30万人にも上った藩もあったという。そして、多くの人々が村を捨てて都市部に流れ込んだのである。

幕府の苦悩

長谷川平蔵
【※老中・松平定信】

しかし、江戸には彼らの食い扶持となる仕事などなかった。こうした人々が当時、無宿人と呼ばれ、生きるために盗みなどの犯罪行為に走るものもいて、江戸の治安を著しく悪化させていた。

火付盗賊改となった平蔵は、取り締まるだけでは犯罪が一向に減らないことに悩む。一方、幕府は無宿人を江戸から隔離・排除する対策を打ち出した。最初は、無宿人を島の鉱山に送り、重労働に従事させたが、これは無宿人を減らすための見せしめである。しかし、その後も無宿人たちの犯罪は留まることを知らない。

打ちこわしからひと月後の天明7年(1787年)6月、松平定信が老中に就任する。無宿人たちの犯罪に危機感を抱いた定信は、無宿人をもとの村に返す政策を行うが、大名たちは国元の治安が悪化することをおそれてこれに反発。またしても幕府の政策は失敗に終わる。

そこで、一人の旗本が新たな対策を行うために名乗り出た。長谷川平蔵である。

人足寄場の設置

平蔵は火付盗賊改の仕事を通じて無宿人たちの実態をつぶさに観察していた。

当時の江戸では、身元引受人がいないと仕事に就くことができず、無宿人も社会の底辺に落ちていた。やがて平蔵は、「無宿人とは社会が生んだ犠牲者ではないか」と考えるようになる。

寛政元年(1789年)、平蔵は松平定信に会い、それまで温めていた対策を上申した。その案とは、無宿人たちのために新しい養育所を設け、技能を身につけさせて一人前の労働者として社会に復帰させようというものである。これは、今まで幕府が行ってきた政策とはまったく異なるものだった。

2年後、平蔵は施設の責任者に任命され、施設は「人足寄場(にんそくよせば)」と名付けられる。

人足寄場は隅田川の河口にある当時の島の一画に造られた。途中で無宿人が逃げないようにするためである。

初めての出所者

平蔵は無宿人たちひとりひとりに目を配れるよう、まずは20人を人足として入れた。平蔵は新入りの人足たちを前に次のように言い渡したという。

『その方たち 心を入れ替え 技能を身に付けよ 自立できると認められればここから出所させる』

ここに幕府直営の授産・更生施設「人足寄場」がスタートしたのだ。人足寄場では、大工、鍛冶、桶作り、縄細工などの技能を身につける職業訓練が始まり、人足たちは好きな訓練を選んで励んだ。寄場で作られた物は江戸市中で販売され、中でも紙すきの訓練で作られた紙は人気となる。平蔵は、こうして得た収入の2割を材料代などに差し引いて、8割を人足たちに分け与えた。そして、その金を貯金させて、彼らが社会復帰するための元手にさせたのである。

さらに平蔵は人足たちの出所後の就職先まで事前に探し、寛政2年(1790年)5月、14人が人足寄場から初の出所者として社会復帰を果たしたのだった。

長谷川平蔵 の功績

長谷川平蔵
※戒行寺の長谷川平蔵宣以供養之碑

出所に当たって平蔵は、人足たちに職に就くのに必要な道具や餞別を渡したという。

その後も社会復帰する人足の数は増え、社会復帰者は毎年200人にのぼった。松平定信は人足寄場を賞賛して、すべては長谷川平蔵の功績であるとまで述べている。

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