桜田門外の変の二番煎じ
「坂下門外の変」(さかしたもんがいのへん)は江戸城の坂下門外において、尊王攘夷を唱える水戸藩の浪士らが時の幕府・老中を務めた安藤信正への襲撃を行ったテロ事件です。
井伊直弼が殺害された「桜田門外の変」が有名過ぎることもあり、いささか影の薄い感のある、この「坂下門外の変」ですが同じく水戸藩の浪士ら中心となって実行に及んだものでいた。
おそらく殺害に成功した「桜田門外の変」の再来を狙ったものであったと考えらています。
公武合体への反抗
「坂下門外の変」は文久2年1月(1862年2月)に、6名の浪士によって行われました。「桜田門外の変」が安政7年3月(1860年3月)でしたので、その後凡そ2年後の事件となりました。
今回襲撃の対象とされたのは、磐城平藩主であり老中を務めていた安藤信正で、井伊の開国を引き継ぐと同時に朝廷と幕府の一体化を目指した公武合体策の一環・和宮降嫁などを推し進めていたことが尊王攘夷派の怒りを誘ったものとなりました。
長州藩は加われず
「坂下門外の変」の元々の計画では老中・安藤信正のみではなく、横浜の居留区の外国人への襲撃も検討されていたと言われています。万延元年(1860年)7月に水戸藩の西丸帯刀らと、長州藩の桂小五郎らが共同して襲撃を行うことが当初は企図されていました。
しかし長州藩では長井雅楽の提唱する公武合体の考えが藩の大勢を占めるに至ったため、藩士らがこうした襲撃に参画することが難しい政治状況になっていました。このため長州藩は計画自体の順延を申し入れましたが、水戸藩側では長州抜きでの決行へと舵を切りました。
襲撃日の決定
「坂下門外の変」は水戸藩士の野村彝之介らを中核とし、これに宇都宮藩の儒学者・大橋訥庵らの下野の志士らが加わって計画が練られました。しかし大橋らが計画を事前に察知した幕府に捕われた為、残りの水戸浪士らでの実行が進めました。
当初は文久元年(1861年)の12月15日に実行する計画でした、一旦12月28日へと延期され、さらに1月15日に上元の嘉例の式日として諸候の登城と将軍への拝謁が予定されていたことから、その日が決行日とされました。
襲撃の実行
こうして文久2年(1862年)1月15日の朝8時過ぎ、老中・安藤の一行が江戸城へ向かって坂下門の外に来たところを6人の刺客が襲い掛かりました。
最初の1人が直訴の振りをして一行の前に現れ、駕篭へと銃を放ちました。この銃撃を機に残りの5人が抜刀して一行へと斬りかかりました。
刺客の一人が駕籠に刀を付き立てたため、中にいた安藤は背中を切りつけられましたが、なんとか江戸城内へと退避しました。
2年前の桜田門外の変の暗殺成功以後、登城に備えた警護は厳しくなっていたため、このときも50人を超す人数が配置されていました。このため刺客ら6人は暗殺に失敗し、その場で全員が切り捨てられました。
坂下門外の変後の安藤信正
刺客達は老中・安藤の暗殺そのものは果たせなかったのですが、桜田門外の変に続いてのこうしたテロ事件は幕府の威光に大きな陰りが生じたことを世間に見せつけることには成功しました。
また、老中・安藤は駕籠の中で負った背中の刀傷から、敵に背中を向けた卑怯な振舞いと判断されて老中を罷免された上で隠居・蟄居を命じられ、領国であった磐城平藩も2万石の減封処分を受けました。
その後の戊辰戦争においては隠居の身にあった安藤は、旧幕府側の奥羽越列藩同盟へ加わることを選択しましたがこの戦もあえなく新政府軍に敗れ、再度の蟄居処分を被ることになりました。
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