井伊直弼のブレーン
長野主膳(ながのしゅぜん)は江戸時代末期の国学者であり、大老を務めた悪名高き井伊直弼(いいなおすけ)のブレーンとしてその政策の立案・実行を担った人物です。
近年では再評価の動きもある井伊ですが、やはり独断で日米修好通商条約を締結したことや、自身の政策に反する者たちを次々と弾圧した安政の大獄などから、概ねその評価は幕末の仇役と見られることの方が多いようです。
しかしこれらの政策は、実は井伊自身のものではなく長野が献策したものと言われています。井伊を幕末の独裁者に推し上げた参謀格の人物・長野について調べてみました。
井伊直弼との邂逅
長野は文化12年(1815年)に伊勢国にて生まれたとされていますが、定かではないようです。ちなみにこの生年は奇しくも後の主君となる井伊と同年です。
長野はその前半生についての経歴もよくわかっておらず、本居宣長に連なる国学を収めた人物で和歌にも長じていたとされています。
長野は天保10年頃に三重県に移り住み、その地の紀州新宮の領主・滝野次郎左衛門の妹・滝と出会い、天保12年に夫婦となりました。その後二人は滝野村から京に移り近畿地方や東海道の各所へ移ったと伝えられています。最終的には江州伊吹山麓の阿原家に定住して、その地で「高尚館」という国学の塾を開きました。
長野はこの地から彦根に足を運ぶようになり、国学の弟子や和歌のつながりの仲間にも恵まれたと言われています。そしてここで井伊との知己を得ました。
井伊の彦根藩主就任
井伊直弼は彦根藩主・井伊直中の14番目の子として、他家への養子の口もなく僅かな扶持を与えられている立場でした。井伊自身がこのまま一生を終える事を覚悟し、自らの屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と称していたことはよく知られた逸話です。
この時期に長野と井伊は国学を通じて出会い、長野が「埋木舎」を頻繁に訪れて師弟関係が築かれていったと伝えられています。
この長野と井伊との邂逅から7年後、井伊家の跡継ぎが次々と世を去ったことで36歳にして奇跡的に直弼は井伊家の当主の座に就くことになりました。
大老井伊の実現と政策
こうして思いがけなく彦根藩主となった井伊直弼は、師である長野を150石取の藩士とし藩校である弘道館の国学の教授方に取り立てました。
ここからの長野の策略が井伊を幕末の独裁者に押し上げました。まず井伊を通常は置かれていない幕府の大老職に就けることを政治的な工作として成功させました。
その上で紀州派として一橋派との権力闘争に勝利して徳川慶福(よしとみ)を後継将軍の座に就けました。また朝廷の許しを得ず独断で日米修好通商条約条約の締結を行うことに踏み切りました。
これらに対する政敵に関して、安政の大獄と呼ばれる大弾圧を指揮し、徹底した粛正を行いました。また幕府の威信が揺らいだ状況を打破しようと、公武合体策を推進して後年の和宮降嫁のきっかけを行いました。
長野の最期
安政7年(1860年)に井伊が桜田門外の変で尊王攘夷派の志士に討たれた後も、しばらく長野は彦根藩の政治に関与しました。しかし新たに藩主となった井伊直憲には遠ざけられ、更に政敵となった家老の岡本半介と対立するようになりました。
文久2年(1862年)に幕閣の文久の改革によってそれまでの井伊家が断罪されると、半介の提言を容れた直憲の命により長野は斬首に処され、享年48で生涯を終えました。
こうして長野にかつての井伊直弼の政策の責任を負わせ処刑したことで、彦根藩はその後の王政復古の時代の波に対応することに成功し、徳川譜代の藩でありながら新政府側に与していくことになりました。
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