はじめに
戦国の覇者となった江戸幕府初代将軍の徳川家康は、生涯で11男5女計16人の子供に恵まれたが、時代は何でもアリの戦国時代。
子供可愛さのため、実子を人質にさせないためなど、何らかの理由で隠し子を作り、身分を偽って子供が大人になってから出世させるなんてこともあるかも知れない。
徳川家康・秀忠・家光の三代将軍に仕えた土井利勝も家康の隠し子という噂があった一人である。
本当に土井利勝が徳川家康の隠し子だったのか?様々な角度から検証してみた。
土井利勝とは
土井利勝は、水野信元の三男として元亀4年(1573年)に生まれた。徳川家康の母親である於大の方、その兄が水野信元、つまり土井利勝は家康の従弟になる。
水野信元は、武田信玄と通じていたと織田信長に疑われて殺されるが、家康は家臣の利勝を土井利昌の養子にさせて土井利勝として命を助けた。
土井利勝は、7歳の時に生まれたばかりの徳川秀忠の傅役を命じられ、以後側近として順調に出世し慶長13年(1608年)に家康から秀忠付きの老中に任じられ45,000石に加増。
慶長20年(1615年)には酒井忠世、青山忠俊と共に徳川家光の傅役に。
元和2年(1616年)家康の死去に伴う事務を取りまとめ、元和8年(1622年)家康の側近である本多正純の失脚によって土井利勝は「幕府の最高権力者」となるのである。
三代将軍家光の幕政でも辣腕を振るい、寛永10年(1633年)に16万石に加増。寛永15年(1638年)江戸幕府初の大老になり、寛永21年(1644年)に72歳で死去した。
隠し子の噂になった事由
家康の叔父・水野信元が武田信玄と通じた疑いで死去。同じようなことが家康にも起こり、その時は長男の信康と正室築山殿が死亡。
つまり何故家臣の土井利昌に長男がいるにもかかわらず、利勝を長男(実子)として養子縁組までさせて命を助けたのか疑問が残る。このような場合、三男といえども息子も処分、または仏門に入れるのがこの時代の通例だが不思議である。
そして家康は、土井利勝を幼少の時から鷹狩りに随行させている、この頃、家康の鷹狩りの随行を許された家臣は三河譜代の家臣たちのみ。しかし、土井家は三河譜代の家臣ではないのに何故なのだろうか?
家康には、11人の男の子がいたが、中でも2男の結城秀康は侍女との間に生まれた子であり築山殿の怒りを恐れて城の外で産ませ、しかも当時縁起が悪いとされた双子だった。家康は幼少期にはほとんど会いに行っていない。結城秀康が生まれた次の年に誕生した土井利勝も、もしかして築山殿の怒りを恐れて隠し子にしたのはないかと推測できる。
土井利勝の実父である水野信元の性格は、短慮であまり深く考えないのに対して利勝は家康と同じで思慮深い性格である。
家康の従弟とはいえ、7歳にして秀忠の傅役という大役に三河譜代ではないのに抜擢、その後、関ヶ原の戦いに遅参した秀忠に仕えていたにも関わらず500石を加増されているのは何故なのだろうか?
関ヶ原戦いの後、徳川四天王の石高は最高でも井伊直政の18万石で譜代筆頭になり、いずれは35万石になるとしても、いくら秀忠の側近とはいえ徳川家臣団では外様扱いの土井家の利勝に、最終的に16万石は多すぎるのでないか?
徳川家臣団の中では外様扱いの土井家の出ながら、異例のとんとん拍子の出世。出世の陰には家康の隠し子としての後押しがあったのがなら納得がいくのである。
土井利勝の人柄
土井利勝は、徳川秀忠が生まれてすぐに傅役になり身の回りの世話や飯炊きを担当、とても気がきき、秀忠との意思疎通が水と魚のようだと言われたそうである。
とても頭の切れる人物であり機転も利いた。伊達政宗のような陰で天下を狙う大物との関係も無難にこなし、政宗からの評価も高かった。
切れ者には、敵が多いのが世の常だが、利勝は表立って露骨に反感を買うことが少なく、幕閣の最高権力者にも関わらずあまり敵を作らなかった。
土井利勝の功績
・徳川秀忠・家光と二代に渡る将軍の傅役
・一国一城令・武家諸法度の制定
・家康死去の後の久能山への葬られた際の総括責任者
・黒田藩の改易後の関盛吉の食客対応
・本多正純の失脚の黒幕
・それまでの慣例とは異なり三代将軍にも側近として老中職を継続
・徳川忠長・加藤忠広の改易
・武家諸法度に参勤交代を組み込む
・寛永通宝の鋳造
・江戸幕府初代大老
・髭を剃ることを日本国内に広めた逸話
髭を剃ることを広めた逸話について
土井利勝は、あまりにも早い出世のために周りから妬まれ、顔が家康に似ていたので当時から「家康のご落胤説」があった。このことを実はとても気にしていた利勝は家康と似ていると言われないために試行錯誤した結果、髭を剃り落とすという手法を取った。
当時の武士には、髭は男の勲章として伸ばすことが推奨された時代。しかし、利勝の真似をすれば出世するという迷信が浸透して髭を剃る者が続出し、日本人が髭を剃る習慣が根付いたとされる逸話である。
その他の土井利勝の逸話
豊臣秀次が秀吉に疎まれて失脚する際に、徳川秀忠にまで塁が及びそうになった時には「伏兵は間道にいる」と進言してわざと本道を使って無事に逃げたという逸話。
徳川家光は、だんだんと土井利勝らを疎ましく思うようになり、知恵伊豆こと松平信綱を重用した頃、上野増上寺の修繕をごまかした信綱に「姑息なごまかしはせず、上様にも無理な物は無理と言いなさい」と厳しく叱りつけたという逸話などがある。
この逸話が正しければ、土井利勝は細かい所に気を使うが、将軍にも駄目な物は駄目と言える性格であることが推測できる。
徳川家康のご落胤(ごらくいん)
徳川家康は、正室1人、継室1人、側室20人以上の奥方たちがいたと徳川実記に記されていて、奥方の数は十五人の将軍の中でも断トツの一位である。
気に入ったらすぐに側室にしたとも言われ、子供の数より側室の数の方が多いのだ。
子供を多く作りたいが故に出産経験のある女性を側室にしたりお城の侍女を側室にすることも多く、土井利勝の他には三代将軍の徳川家光が実は家康のご落胤ではないかという噂もあったのだ。
また、豊臣秀吉に子供が出来なかったために、豊臣秀頼が生まれた時には複数の他の父親説が噂され、その中には家康のご落胤ではとの噂もあった。
結城信康の双子の弟は、名前を貞愛と言い、ご落胤として日陰の身のまま31歳で病死。
松平民部は、家康41歳の厄年の子のためにご落胤になり34歳で死亡。
他にも後藤庄三郎広世、大久保主水がご落胤である。
井伊直孝は井伊直政の次男であり彦根藩二代藩主であるが、家康のご落胤の噂があった。
最後に
徳川家康には、土井利勝以外にもご落胤(隠し子)として噂された者や実際に認めたご落胤が居る。
土井利勝が生まれた時代の徳川家康は、織田信長と同盟にありながら完全に信長の言いなり状態だった頃である。現に嫡子信康が武田との内通の疑いで死んでいて、土井利勝の実父・水野信元も同じことが起きたので、隠し子という話はまんざら突拍子もない話でもなさそうだ。
土井利勝の早い出世を羨む周りの声も多く、利勝本人も家康と顔を似ていることを気にかけ、髭を剃るという逸話も出来たほどだ。
徳川家康と土井利勝の二人以外は、本当の真実は知らない方が歴史ミステリーとしては面白いかもしれない。
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