江戸時代

歴史上、有名な花魁たち(高尾太夫、勝山、小紫太夫、榊原高尾)

花魁とは

花魁とは

※花魁の扮装をした女性。2008年 wiki(c)Andrew O. 

花魁(おいらん)とは、吉原遊郭の遊女の中でも位の高い者のことを指す言葉である。

吉原とは江戸時代、幕府によって公認されていた遊郭の一つで、当初は江戸日本橋(現在の日本橋人形町)にあったものの、火災によって浅草寺の裏に移転し、明治時代初期まで隆盛を誇る歓楽街だった。

そんな吉原遊郭で働く遊女たちの多くは、年季奉公という形で働かされており、生家の家系の貧窮などにより吉原へと売られて来る者がほとんどだったが、その中で花魁になれるものはほんの一握りだった。

子供の頃から廓内で姉女郎たちに従事し、きちんとした教育を受け、教養や芸事、書など、美貌だけではなく、様々な英才教育を受けた。

その選ばれし子供たちの中でも、実際に花魁になれたのはわずか数人であると言われている。

この記事では、名だたる花魁たちの中でも、特に有名な花魁たちについて紹介したいと思う。

恋を貫き殺された高尾太夫(2代目)

花魁とは

※2代目高尾太夫

太夫(たゆう)というのは、最高級の遊女が“花魁”と呼ばれる前の呼び名のことで、有名な花魁たちには、名前のあとに太夫とつけられているケースがほとんどである。

高尾』というのは、最高級の花魁に襲名される源氏名の一つで、この2代目高尾太夫の後にも、何人かの遊女に名前が受け継がれている。

この2代目高尾太夫は、鳥取藩士の島田重三郎と恋に落ちていたが、その美貌ゆえ、当時の仙台藩主であった伊達綱宗(だてつなむね)に見初められ、身請けされることになった。高尾の恋人はただのしがない藩士なので、彼女を遊郭から出すほどの財力を持ち合わせていない。

伊達綱宗は、高尾太夫の体重分の金と、多くの衣装を身請け金にした。これは現代の価値で言うと5億円ほどの金額だと言われている。

しかし、高尾太夫の想いは変わらず、身請けされた後も恋人に操を立て、なんと半年間も伊達綱宗には指一本触れさせなかったそうだ。
怒った伊達綱宗は、高尾を部屋に幽閉し、拷問をすると脅したが、彼女はまったく屈しなかったという。

言い伝えでは、自分の意のままにならない高尾太夫に怒り、伊達綱宗は物見のため大川(隅田川)を下っていた舟の上で、高尾を逆さづりにすると、無残にも斬り殺してしまったと言われている。(※伊達綱宗とのエピソードは俗説ともされている

花魁は、その美しさだけでなく、気位の高さも一流だと言われている。

いくら相手が金を積もうとも、花魁が相手を気に入らなければ、共に床入りすることはできないのである。

お金では人の心は買えない、ということをよく表しているエピソードかもしれない。

最先端のファッションリーダー 勝山

花魁とは

※勝山髷

勝山は元々、湯女と呼ばれる風呂屋の従業員(客をとる女性)であったが、のちに吉原で太夫になった女性である。

湯女時代から、その派手な出で立ちは評判になっていたようで、髪形は自ら考案した勝山髷(丸髷)という髪形に結っていた。

これは、上品な武家の女性風の髪形で、本来ならば勝山のような身分の女性が結う髪形ではなかったようだ。

だが、これが江戸の女性たちの間で多いに流行し、彼女らはこぞって勝山髷を真似したのだという。

しかし、当時は幕府から吉原以外での売春を禁じされており、やがて勝山は吉原の遊郭へと移籍した。
元々人気のあった彼女は吉原で大出世し、最高位の太夫へと昇りつめたという。

花魁とは

※花魁道中の図

また、花魁がひいきの客に会う際に行われた“花魁道中”だが、その際に花魁が踏む「外八文字」という足どりは。勝山が考案したと言われている。

勝山のファッションは江戸の庶民だけではなく、武家の女性の間にも大流行だったようで、大坂の浮世絵草子作家であった井原西鶴は、自身の随筆の中で、勝山太夫の人気について触れている。

真実の愛を選んだ 小紫太夫

小紫太夫は和歌の名手として有名な花魁で、平安時代の和歌の名手であった紫式部にちなみ、小紫と呼ばれていたのだとか。

花魁として人気の絶頂にあった小紫であるが、実は、平井権現という藩士と恋仲になっていた。

しかし、小紫は江戸一番の遊女であり、身請けどころか、一夜を共にするのでさえ、貧乏な藩士である権現には難しいことだった。

小紫に会いたさに、権現は強盗や辻斬りを繰り返して金策していたが、ついには捕まって処刑されてしまった。

それを知って小紫は深く傷ついたが、そんな彼女のもとへ身請け話がやってくる。
権現以外の男性と添い遂げることなど考えられない小紫は、身請けの当日、権現の墓の前で自害をしたという。

遊女と客、という許されざる身分の者同士が恋をしたことで、悲劇の結末が待ち受けていたのである。

大名の側室になった 榊原高尾

榊原高尾(高尾という名前は6代目)は、花魁の中で唯一、大名の側室になった女性である。

正室を亡くし気落ちしていた姫路藩・藩主の榊原政岑が、気晴らしに出かけた吉原にて、この高尾にひとめぼれしたと言われている。

政岑は、民を想って施政を行う名君であり、また自ら倹約につとめていた。
そんな名君を支えたとされる高尾は、榊原太夫と呼ばれ、貞淑で賢いと評判の女性であったようだ。

政岑はわずか36歳という若さで亡くなってしまうが、榊原太夫はその後も、江戸にある下屋敷で暮らし、68歳でこの世を去ったという。

病気で早くに死んでしまったり、身請け後も不幸な人生を送る遊女が多い中で、彼女の一生はまれにみる幸福なものであったと言えよう。

最後に

この記事では、歴史上有名な花魁について調べてみた。

花魁は、その美しさだけではなく、教養が深く、そして江戸っ子としての情や、きっぷの良さも持ち合わせている女性たちである。
そんな彼女らの生きざまは、言い伝えだけではなく、歌舞伎や人形浄瑠璃など、多くの作品にも残されている。

制限された状況や人生の中で、自分に誇り高く生きた花魁たちの、はかなくも美しい生きざまを感じていただければ幸いである。

 

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