天草四郎と島原の乱とは
江戸時代の初期、現在の長崎県島原地方で、島原の乱という大規模な一揆が起きた。
その時、総大将となったのがわずか16歳の少年・天草四郎(あまくさしろう)だったという。
弱冠16歳の若者だった天草四郎がどうして総大将になったのか?島原の乱が起きる経緯や天草四郎の人物像について追ってみた。
キリスト教への弾圧
徳川家康が幕府を開いた頃にはキリシタン大名と呼ばれる藩主が多くいた。
九州の島原地方の肥前日野江藩主・有馬晴信も熱心なキリシタンであった。
有馬晴信は宣教師のルイス・フロイスと、領内にある寺社仏閣の破壊とキリスト教への改宗を約束したために、領内にはキリスト教徒が多かった。
そのうち幕府にとってキリスト教の布教は脅威となり、国そのものの危機にならないようにと、幕府は布教への制裁を行うきっかけを探していた。
そんな中、有馬晴信が収賄事件を起こし捕らわれて、死罪となる事件が起きる。
これをきっかけに幕府はキリスト教への弾圧を開始し、慶長18年(1614年)禁教令を発布して諸大名に対してキリスト教宣教師の国外追放を命じた。
有馬晴信に代わって新たに藩主となった松倉重政はキリスト教の弾圧を強め、それに加えて領民に対して重税を課せた。
キリスト教からの改宗を拒んだ者には残酷な拷問や処刑を行い、年貢を納められない者にも同じような残酷な拷問などを行った。
松倉重政が亡くなると子の松倉勝家が後を継ぎ、父以上のキリスト教の弾圧と過酷な税を課し、飢饉が続いたにもかかわらず更に重税を課したため領民たちの生活は困窮した。
ママコス神父の予言
慶長8年(1614年)にこの地を追放された宣教師のママコスは「25年後に天変地異が起きて人類は滅亡の危機に晒される。しかし、天人に扮する16歳の少年がキリストの教えに帰依する者たちを救う」という予言を残して日本を去った。
弾圧を受けた人たちはその予言を信じ「コンフラリア」という秘密裏にキリスト教を信仰する組織を作り「隠れキリシタン」となり、救世主の登場を待っていたという。
島原では藩主・松倉勝家の悪政が続いていたが、予言からちょうど25年後に1人の救世主が現れた。
その名は「益田四郎」という16歳の少年であった。
天草四郎
天草四郎こと益田四郎は、元和9年(1623年)キリシタン大名小西行長の家臣だった浪人で、農家を行っていた益田甚兵衛の子として生まれた。
益田家は一家全員がキリシタンで経済的にも余裕があり、四郎は9歳頃から学問を学びに度々長崎に行っていた。
四郎はとても優秀で、キリスト教の経典や書物などを暗記し、一語一句間違えないで人々に説いて聞かせたという。
そして「盲目の少女に触れるとその少女の目が見えるようになった」「天草と島原の間の海を歩いて渡った」など、奇跡的なことが出来ると評判になった。
これらの奇跡は新約聖書の中に書かれたイエス・キリストの逸話と酷似しており、四郎の名声を高めるための一揆首謀者の創作であると考えられる。
カリスマ性を高めるために益田四郎から「天草四郎」に改名させられたというが、迫害されてきたキリシタンたちには、容姿端麗な16歳の美少年、天草四郎の姿は予言どおりの救世主に見えたのだ。
松倉勝家の悪政に苦しめられたキリシタンや領民たちは、彼を旗印に一揆の決起を決断した。
島原の乱
有馬晴信や小西行長の家臣だった浪人たちは、かねてから反乱の計画を立てていた。
彼らは、キリシタンの間でカリスマのような人気のある益田四郎を天草四郎と称し、彼を総大将に据えて寛永14年(1637年)10月25日に代官所を襲撃し、島原の乱が始まった。
幕府や松倉勝家によって改宗させられた島原の領民たちは、天草四郎の出現によって再びキリシタンへと改宗していった。
16歳の少年に戦略や戦術の知識がある訳はない。しかし領民たちの間には彼の神格化された噂が広がり、一揆軍はすぐに膨れ上がる。
その噂はさらに広まり島原の他に、隣の天草地方のキリシタンたちも決起した。
翌10月26日には島原城へと進軍し、天草と島原の一揆の勢力は原城で合流し、その数は3万7千人にもなっていた。
その知らせを聞いた三代将軍・徳川家光は、島原に総勢12万という大軍を送った。
原城に立て籠もった一揆軍に対して幕府軍は3度の戦いを仕掛けたが、3回とも幕府軍は敗北し、指揮官の板倉重昌も戦死してしまう。
救世主天草四郎と神のご加護を信じたキリシタン軍の勢いは、幕府軍を圧倒した。
幕府はオランダ船にも援軍を要請し、海上から原城を砲撃する。
この攻撃に一揆軍は多くの死傷者を出したが、降伏には至らなかった。
そこで幕府軍は補給路を絶ち兵糧攻めをする作戦に切り替えた。この兵糧攻めは功を奏し原城の備蓄は底をついた。
次に幕府軍は天草四郎の家族を人質にして降伏の交渉を行うが、天草四郎らは耳を貸さず籠城戦を続けたという。過酷な食糧難に多数の餓死者が出て籠城していたキリシタンたちはやせ衰えた。
寛永15年(1638年)2月27日、とうとう幕府軍は総攻撃を開始する。
兵糧攻めで疲弊した一揆軍は幕府の攻撃に耐えきれず、ついには天草四郎も討ち取られ、原城にいた女子供に至るまで惨殺されてしまったという。
鎖国
島原の乱を鎮圧後、幕府は禁教令を更に強化して隠れキリシタンのあぶり出しなどを行った。
2度と島原のような反乱が起きないようにと、長崎奉行を置いて九州の警備を強化した。
島原の乱で強固なキリスト教の団結力を知った将軍・家光は、寛永16年(1639年)にポルトガルとの国交を断絶する。
日本は江戸時代に入ってから鎖国政策が進んでいたが、ここから本格的に鎖国体制が始まり、貿易は中国とオランダだけとなった。
島原の乱の元凶となった松倉勝家は、悪政振りが幕府に発覚し、大きな反乱を招いた罪として大名として異例の斬首の刑になったという。
天草四郎の伝説
天草四郎には豊臣秀頼のご落胤だったとされる説があり、これは四郎の馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪(ひょうたん)だったためとされている。
これは大坂夏の陣で死亡したはずの秀頼が、密かに大坂城を脱出して九州に渡ったという伝説を利用した、一揆首謀者の創作だとされている。
他には、天草四郎は「襞襟(ひだえり)」という円状に広がった襟を好んで着ていたという。
襞襟とキリスト教は特に関係はなく、単なる四郎の好みだったというが、この服装は四郎の神秘性をより高めている。
「天草四郎は複数いた」「天草四郎は島原の乱の首謀者の浪人たちが作り出した架空の人物だった」という説もある。
幕府軍は天草四郎の顔を知らなかったために、討ち取った少年の首を次々と母親に見せて、母親が泣き崩れた首を天草四郎だと断定した。
そのために天草四郎は密かに日本を脱出し、フィリピンに逃亡したという説まである。
おわりに
結局、天草四郎の人物像は謎に包まれているが、当時の島原のキリシタンにとっては精神的な支えであったことは確かである。
16歳で総大将になったことを考えると、とても優秀で素晴らしい才能を持っていた人物であったはずだ。
歌手の美輪明宏さんが「自分の前世は天草四郎」と称していたが、実は当時の丸山明宏の名前では売れなくなったために、自分の前世は天草四郎だと称した売名行為だったとTV番組で告白した。
ママコス神父の予言通りの25年後に、16歳のキリシタンの容姿端麗な少年が類まれなる素質を持って現れたことだけは現実であった。
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