荒木又右衛門とは
荒木 又右衛門(あらき またえもん)とは、柳生宗矩・柳生十兵衛親子から新陰流を学び、義弟の頼みで仇討ちの助太刀を引き受け、見事本懐を遂げた剣豪である。
この仇討ちは、鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)と呼ばれ、日本三大仇討ちの一つとして有名であり、幕府旗本vs外様大名という大きな争いにまで発展し、その後、荒木又右衛門は急死してその死因は謎となり、彼は伝説の剣豪となった。
「鍵屋の辻の決闘で36人斬り」「奉書の剣」「水月の剣」「荒木の前に荒木無し、荒木の後に荒木無し」と称えられた剣豪・荒木又右衛門について迫る。
荒木又右衛門の生い立ち
荒木又右衛門は慶長4年(1599年)(慶長3年という説もある)服部平左衛門の次男として伊賀服部郷荒木村で生まれた。
父・平左衛門は藤堂高虎に150石で仕えたが、訳あって浪人となり、その後 備前岡山藩主・池田忠雄(いけだただかつ)に300石で仕えた。
父・平左衛門には渡辺数馬という同僚がいて、この渡辺数馬の子に娘・みの、弟・数馬(二代目)とその弟・源太夫がいた。
後に又右衛門は渡辺数馬の娘・みのを嫁に迎え、数馬(二代目)や源太夫と義兄弟の関係となる。
義兄弟となった源太夫は美少年として知られており、藩主・池田忠雄の寵愛を受け小姓となっている。
又右衛門は幼い時から剣術を学び、父からは「中条流」、叔父・山田幸兵衛から「神道流」を学ぶ。15歳の頃には柳生の里で柳生宗矩・柳生十兵衛親子の門人となり「柳生新陰流」を学んだという。
一説には別の流派で一流を極めた後に柳生の門人となって「柳生新陰流」を学んだともいわれている。
又右衛門は12歳の時に桑名藩主・本多忠政の家臣・服部平兵衛の養子になったが、28歳頃に服部家を離れて浪人となり、生まれ故郷の伊賀に帰る。
故郷では、はじめ菊山姓を名乗り、後に荒木姓を名乗った。
やがて又右衛門は兵法者として名を知られるようになり、大和郡山藩主・松平忠明から250石で剣術指南役として召し抱えられた。
鍵屋の辻の決闘
寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主・池田忠雄の小姓として寵愛されていた源太夫に、藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが拒絶され、逆上した又五郎が源太夫を殺してしまうという事件が起こった。
又五郎は脱藩して江戸に逃亡し、幕府の旗本・安藤次右衛門に匿われた。
藩主・池田忠雄は激怒して幕府に又五郎の引き渡しを要求したが、安藤次右衛門は旗本仲間と結託してこれを拒否してしまい、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展する。
その2年後、池田忠雄は急死してしまうが、よほど無念だったのか死の間際に「読経よりも又五郎の首を墓前に供えよ」と、又五郎を討つように遺言を残した。
家督は忠雄の子・光仲が継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ移封となる。
幕府は喧嘩両成敗として事件の幕引きに動き、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決める。
しかし、源太夫の兄で、又右衛門の義兄弟でもある渡辺数馬(二代目)は、国替えには従わず仇討ちのために脱藩する。
そして剣術が未熟だった数馬は義兄・又右衛門に助太刀を依頼し、又右衛門はそれを承諾した。
二人は又五郎の行方を探し、奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを知る。
又五郎は危険を察して江戸へ逃亡しようとするが、又右衛門たちは又五郎が伊賀路を通って江戸に向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せをする。
待ち伏せたのは数馬と又右衛門、その弟子の・岩本孫右衛門と川合武右衛門の4人だった。
又五郎一行は又五郎の叔父・元郡山藩剣術指南役の河合甚左衛門、娘婿で槍の名人・桜井半兵衛などが護衛につき、総勢11名であった。
寛永11年(1634年)11月7日早朝、又右衛門たちが待ち伏せていることも知らず、又五郎一行が鍵屋の辻を通り、ついに決闘が始まる。
まずは弟子の岩本孫右衛門と川合武右衛門が、馬上の桜井半兵衛と槍持ちに襲いかかり、槍の名人である桜井半兵衛に槍が渡らないようにした。
又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬した河合甚左衛門を斬りつけてとどめを刺した。そしてすぐに岩本孫右衛門と川合武右衛門が相手をしていた槍の名人・桜井半兵衛も斬り殺す。
しかし、この時、川合武右衛門が斬られて命を落としてしまった。
また、又右衛門が半兵衛を討ち倒した際には、他の護衛から木刀で背後を襲われた。又右衛門は振り向いて刀で受けたが刀身が折れてしまい、腰に一撃を受けてしまう。
しかし又五郎側の多くの者は、頼みとしていた河合甚左衛門と桜井半兵衛が討ち取られたために、戦意を失い逃げ出した。
逃げ遅れてたった一人となった又五郎を、数馬・又右衛門・孫右衛門たちが取り囲む。
又五郎を討ち取るのは数馬の役目。又右衛門と孫右衛門は引いて見守り、又五郎と数馬の一騎打ちの形となった。
しかし、この2人は剣術が未熟であったためになんと5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせ、又右衛門がとどめを刺した。
36人斬り
見事に本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の注目を集め、仇討ちを主導した荒木又右衛門は特に賞賛を浴びた。
後に話が膨らみ、「又右衛門の36人斬り」と言われたが、実際に又右衛門が斬ったのは2人だった。
又右衛門は、斬り合いの最中に通行人たちから「何事だ?」と声をかけられたが、余裕綽々に「おう、仇敵でござる」と返事をしていたという。
また、決闘地の領主である津藩・藤堂家は、又右衛門たちに又五郎一行の情報を提供し、決闘が始まると周囲を封鎖するなど支援をしている。
その後、又右衛門・数馬・孫右衛門の3人は藤堂家に客分として4年間も預けられた。
藤堂家の剣術指南役の戸波親清に「大切な場合に折れやすい新刀を用いるとは不心得である」と批評されると、又右衛門は不覚を悟り、寛永12年(1635年)数馬と共に戸波親清に入門したという。
謎の急死
鳥取へ移封された藩主・池田光仲の請いで、寛永15年(1638年)8月12日、又右衛門らは鳥取に移った。
又右衛門は妻子を鳥取に呼び寄せたが、妻子が到着した頃の8月28日に、又右衛門は急死したという。
死因は毒殺説など諸説ある。
また、1638年時点ではまだ生存しており、その後も鳥取城内に匿われて、寛永20年(1643年)9月24日に死去したという説もある。
急死と発表した理由は又五郎側からの暗殺を恐れて病死を装った、あるいは鳥取藩への移籍がうまくまとまらず、死んだことにして交渉を打ち切りにしたという説もあるが、又右衛門は42歳の若さでこの世を去ったとされている。
荒木又右衛門の逸話
荒木又右衛門には幾つかの逸話があるのでここで紹介しておく。
- 又右衛門は柳生新陰流・将軍家指南役の柳生宗冬と試合をすることになった。相手は自分の師・柳生十兵衛の弟の宗冬である。木刀を持って構えた宗冬の前に、又右衛門は丸めた奉書紙(和紙の一種)を手に、正段の構えで対峙した。木刀ではなく紙を構えた又右衛門に、宗冬は打ち込むことが出来なかった。これは「奉書の剣」という逸話となった。
- ある時、又右衛門は精神を統一して池に映る満月を斬ったところ、波も立たずに水面に斬った筋が残ったという。これは「水月の剣」と呼ばれた。
- 又右衛門たちの「鍵屋の辻の決闘」は「赤穂浪士の討ち入り」「曽我兄弟の仇討ち」と並ぶ日本三大仇討ちとされた。
- 「36人斬り」と誇張された又右衛門の強さは、「荒木の前に荒木無し、荒木の後に荒木無し」と称えられた。
- 又右衛門は柳生宗矩の命を受け、隠密活動をして柳生親子を助けていた。
おわりに
荒木又右衛門は江戸時代から歌舞伎・講談・浄瑠璃などの題材となって人気を集め、現在でも時代劇・映画などに数多く登場し、師・柳生十兵衛と共に江戸時代初期の剣豪HEROとして描かれている。
本懐を遂げた後に謎の急死をしていることも、彼の神秘性を高める一つの要因となっている。
時代劇ヒーロー・荒木又右衛門!あの柳生十兵衛が唯一認め、仇討ちの助太刀を止めたにもかかわらずに身内というだけで助けに行った男気ある江戸時代初期のヒーロー。
その死が謎というのがまた何とも言えないっすよ!