江戸時代

小笠原長治 ~不敗の技「八寸の延金」を編み出した剣豪

小笠原長治とは

小笠原長治とは

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小笠原長治(おがさわら ながはる)は、新陰流の四天王の1人・奥山公重から神影流を学んだ。

豊臣秀吉に仕えて小田原征伐に出陣し、大坂の陣では豊臣秀頼に仕えたが、豊臣家滅亡後はに渡って柔術を習得。

己の学んできた兵法と組み合わせて「八寸の延金」という術(技)を編み出した。

日本に帰国後は多くの剣客と立ち合ったが、誰も敵う者はいなかったという。

剣聖と名高い上泉信綱でさえも「八寸の延金」には敵わないと評された、小笠原長治について迫る。

真新陰流

小笠原長治の出自は謎で、今川義元の家臣であった小笠原信興の弟、または甥だとされている。

武田信玄が遠江の高天神城を攻めた時の城主が小笠原信興なので、長治は今川家に仕えていた可能性もある。

小笠原長治とは

上泉信綱 群馬県赤城神社 草の実堂撮影

長治は剣聖・上泉信綱の高弟で、新陰流の四天王の1人と称された奥山公重から神影流を学び、門弟の中で一番の使い手となった。

そして神影流の継承者となり後に「真新陰流」を創始した。

豊臣秀吉に仕えて小田原征伐に出陣し、大坂の陣の際には大坂城に入り豊臣秀頼に仕えたとされているが、実はこのことは定かではない。

それは今川家衰退後の遠江・小笠原家は、徳川家から武田家を経て北条家に身を寄せていることから、小田原征伐では北条側として従軍しているからである。

通説では豊臣家滅亡後にに渡ったとされている。

八寸の延金

明に渡った長治は張良の末裔だという人物から「柔術」を学んだという。
張良は漢の初代皇帝劉邦に仕えた名軍師で、多くの作戦を成功させて劉邦を助けた人物である。

その末裔だとされている人物から学んだ柔術と、自分が学んできた兵法を組み合わせて「八寸の延金」という術(技)を編み出した。

日本に戻り多くの剣客たちと立ち会ったが、誰も長治に勝てなかったとされており、立ち合った者の中には「上泉信綱でさえも八寸の延金には敵わないだろう」と語った者もいたという。

八寸の延金」は不敗の技と言われたが、何故か失伝している。

実は不敗ではなく、一番弟子の針ヶ谷夕雲(はりがや せきうん)が長治と立ち合って勝利し「大した技ではない」として弟子に伝えなかったという説や、針ヶ谷夕雲が自分の弟子に伝えたが、その後の弟子が会得出来なかったのではないかという説もある。

八寸の延金」は一説では

「柄をスライドさせて柄の長さ八寸の間合いを稼ぎ、体をさばき一瞬で片手打ちを放つ、その時に巧みに鍔(つば)元から柄頭に持ち替え瞬時に間合いを稼いだ技」

でないかと言われている。また

「しばらく両手持ちで戦い、振り上げた所から片手斬りに変化すると間合いが八寸ほど延び、届かないと思っていた相手に届いてしまう技」

という説もある。

張良が気功を扱う呼吸法を体得していたという伝承から「八寸の延金は気功を用いていたのではないか?

とも言われている。

後世に中西派一刀流・白井亨(しらいとおる)が研究に研究を重ねて「八寸の延金」を会得したとされているが、あくまでも復元技であって直伝技ではないので、本当に会得していたのかどうかは分からず「八寸の延金」は幻の技となっている。

2人の優秀な弟子

小笠原長治とは

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針ヶ谷夕雲

長治のもとには多くの門弟が集まった。

その中で一番強く、長治から正当に「真新陰流」を継承したのが、針ヶ谷夕雲(はりがや せきうん)である。

夕雲は、40歳頃に寺に参禅していた時、刀の勝負より心の勝負の重要性を悟る。

剣の技が五分だった時、最終的には相打ちしかなく、双方が傷を負ってしまうか、もしくは死んでしまう。
そのことから、高い境地に至った者同士は、剣を交える前に相手の力量を知って剣を納めるべしという「相抜け」という境地にたどりついたという。

「相抜け」の前では最強の技「八寸の延金」ですら虚構の技に過ぎず「真新陰流と八寸の延金」を捨て、自分の流派を「無住心剣流」と名付けてたという。

この時に「八寸の延金」は封印され、失伝したという説もある。

神谷伝心斎(直光)

もう一人、針ヶ谷夕雲以外に師・長治と立ち会って、勝利した門弟が 神谷伝心斎(直光)である。

当時、宮本武蔵の二刀流が知れ渡っていたので、伝心斎は独学で二刀流を研究して武蔵への対処法を見つけたと豪語した。

師・長治が慢心を諌めるために二刀流で立ち合うことになり、長治は自分の技ではない二刀流を巧みに操り挟み込んで押さえにかかった。
しかし伝心斎は二刀流をはねのけ、体勢を崩した長治の顔面を打った。

長治は弟子を諌めるために立ち合ったが、逆に一本を取られてしまう結果となった。しかし長治は素直に伝心斎の技を褒めたので、伝心斎はその後、慢心することなく真新陰流を極めたという。

その後、伝心斎は67歳の時に「従来の勝負とは全て外道乱心の業であり、兵法の根本は仁義礼智の四徳に基づかない限り本物ではない。己を捨てて直心を以て進み、非心邪心を断たなければ自然にゆがむ」と悟り、自分の流派を「直心流」とした。

この流派は後に「直心陰流」と名を変え、幕末の頃に栄えて江戸四大道場の一つになった。

おわりに

戦国時代から江戸時代初期はたくさんの剣豪がいたが、明に渡って修業した剣豪は小笠原長治だけであったという。

幻となった最強の必殺技「八寸の延金」で、剣聖・上泉信綱を超えたとまで評された小笠原長治であるが、あまり知られていないのが不思議である。

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