北海道函館市にある「五稜郭」は、同地の著名な観光スポットだ。
上空から見ると整った星型をしており、その姿形は記憶に残りやすい。また、戊辰戦争や箱館戦争の終結の地であるという知識も一般によく知られている。
しかし、なぜ五稜郭が星型をしているのか、それは城としてどのような意味を持つのかを知る人は意外と少ない。そこには、当時の時代背景や戦争のあり方を反映した工夫が散りばめられている。
今回は、激動の時代の中に築かれた「五稜郭の秘密」を解説しよう。
目次
五稜郭は「従来の日本の城郭」とは切り離して考えるべき
日本国内にある城は、多くの場合高い「石垣」に囲まれた外郭を持ち、その中央に「天守閣」があり、という構造だ。
しかし、五稜郭の写真などを見たことがあればわかるとおり、五稜郭にはこうした「高い石垣」は存在せず、身長ほどもないような低い石垣があるだけだ。また、「城」の見どころのひとつでもある「天守閣」もない。この外見上の違いは、当時の戦争のあり方が大きく変わっていたことを意味する。
日本で城が多く作られた戦国時代には、戦いの主役はもっぱら弓矢と槍であり、大砲や火縄銃が一部運用されていたにすぎなかった。五稜郭は、そうした戦国時代~江戸時代の戦い方とは異なり、大砲や鉄砲を組織的に運用して戦闘を行うことを見越した城郭として建造されているのだ。このような五稜郭の築城には、当時すでに大砲と鉄砲が戦争の主役となっていたヨーロッパの知識が活かされている。
ヨーロッパで要塞として使用されていた、五稜郭と類似の構造を持つ「稜堡式要塞」の知識を五稜郭に反映したのは、フランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」副艦長から指導を受けた、武田斐三郎という人物だった。
五稜郭の構造は「近代的な戦争に対応する」ためのもの
高く垂直に建てられた城壁は、敵兵が城内に侵入することを防ぎ、また飛来する矢や火縄銃の弾丸から効果的に味方の兵を守っていた。
しかしながら、石垣や天守閣は矢や銃弾を防げても、大砲による砲撃には脆弱だった。身を隠しても石垣に当たった砲弾は砕け散り、周囲にいる味方が死傷した。天守閣は砲撃の良い標的となって、敵が外郭から城内へ砲弾を撃ち込む際に目標として利用される有様だった。
五稜郭は、戦争の主役がすでに大砲と鉄砲に移行している前提で建造されている。
味方の兵を殺傷してしまう上に砲撃の標的にもなる垂直で高い石垣を築かず、その代わりに低く分厚い城壁と土塁によって、砲弾が着弾した際の衝撃を緩和している。これによって守備兵を保護しているのだ。また、高い城壁がないことで、城内から城外へ砲撃を行うための火点も確保することができた。
「星型」の理由は、五稜郭が「寄せ手を攻撃する要塞」であるため
日本の城郭も、中国やヨーロッパの城郭も、かつては円形や方形の外郭を持っているものが多かった。もちろん建造のしやすさも理由としてあっただろう。
しかし、このような円形や方形の外郭は、敵が攻撃してきた際に、攻撃を受けている箇所を支援する能力に欠けていた。さらに、方形の外郭は、接近した寄せ手の兵が守備側の矢弾から身を隠す「死角」を作り出してしまっていた。これに対応するべく作られたのが「星型稜堡(ほしがたりょうほ)」だ。
突端部を作ることで、守備側の死角を可能な限り減らし、また、一点が攻撃を受けた際に他の火点から寄せ手を攻撃するという機能を持たせている。
五稜郭はこのように、ただ内部にこもり防御するだけではなく、「兵を守りつつ寄せ手を殲滅する」という意図を持った要塞なのだ。
「画竜点睛を欠いた」五稜郭
五稜郭はこれまで解説してきたように、当時の日本としては最先端の戦法を取り入れた城郭だった。箱館に集結した旧幕府軍勢力が、その政治と防備の根拠地とするにあたり、五稜郭が選定されたことは納得のいくものだ。
しかし惜しまれることには、五稜郭は新政府軍を迎え撃つ段階に至ってもまだ「完成」とは言い難い出来だった。
それは、稜堡式要塞に欠かすことのできない「分派堡:ぶんぱほ」を築くことができなかったためだ。
五稜郭のように突端を持つ稜堡式要塞は、各突端部の間やその外郭にさらに小規模な堡塁(ほるい)を築く。(※堡塁とは攻撃を防ぐために石、土砂、コンクリートなどで構築された陣地)
この小規模な堡塁群を分派堡と呼ぶ。大火力を持つ要塞からの砲撃とは別に肉薄する敵に分派堡から攻撃をしたり、要塞攻略のために突入してくる敵の背後を銃撃したりといった使い方をするわけだ。
この分派堡のあるなしで、要塞の防御力は雲泥の差がある。分派堡を持つ要塞を攻略する難しさは、奇しくも後年、日本陸軍が経験することになる日露戦争の旅順攻略戦が物語っている。
歴史にIfは禁物だが、五稜郭が「完成形」であったのならば、五稜郭への総攻撃の結果や、戦争の期間は大きく変わっていたのかもしれない。
おわりに
五稜郭のほか、旧幕府軍はオランダで建造した最新鋭の軍艦「開陽丸」を擁し、幕末にその名を轟かせた土方歳三率いる部隊もいた。しかしそれでも、旧幕府軍が北海道に抱いた「蝦夷共和国」という夢は、水泡に帰す結果となってしまった。
五稜郭はその姿形もまた人々を引きつけるが、日本の歴史の転換点となった場所のひとつだという魅力もある。
そして、榎本武揚ら旧幕府軍首脳が見た「蝦夷共和国」への夢、その礎となるべき「未完の城」という歴史のストーリーが、多くの歴史好きの心を刺激して、今なお色褪せることのないロマンを感じさせているのかもしれない。
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